身分制による批評の禁止

患者ポジションの研究者やライターは、医師や福祉関係者にとって、批評の対象になるか。

  • (1) 対立している
  • (2) レベルが低い

に留まらず、

  • (3) 倫理上許されない

という理由で、《批評してはならない》 とされることが多い。


神経症圏の患者さんであれば、診断学的な位置づけは医師や福祉関係者と同じだが、
支援に関して 《する側/される側》 が一度できてしまうと、下駄を履かされた承認か、
全面的に「頭をなでてもらう」ような言及しかされないことがほとんど。*1


多くの “当事者” は、褒められることでウットリするが、それは身分制的に隔離されたにすぎない。
原理的に新しい話をしていても、論争以前に「隔離されて」終わる。



このことは、医療・福祉だけでなく、《弱者》ポジション全般にいえる。
「弱い者を肯定せよ」という正義を振りかざす人は、マイノリティの言動を正当に批評できない。


弱者批評へのタブーは、弱者によってなされた仕事を、むしろ排除してしまう。*2
全面肯定と全面否定の二項しかないという、その扱いこそが、差別的排除といえる。*3


それは 《批評が clinical に、苦痛緩和的に機能する》 という要因を抑圧する。
悩む本人の側の批評的介入を禁圧する。


マクロに見ても、「弱者の全面肯定」は支えられない。

少子高齢化の極端な進展で、端的に破綻する。




必要なのは、単なる隔離とは別の、新しい批評の方法

特別扱いしなければ抑圧になってしまう、というのであれば、それは批評の方法を間違っている。
100%の肯定でも、不当な抑圧でもない批評がいる。その方法論は、まだ誰も口にしていない。
これは、日本文学が私小説を特別扱いしてきたことと無関係には見えない。



*1:しかしそのことは、明示的には言及されない。ちゃんと承認されたことになっているが、たとえば過去の似た業績を無視していても何も言われなかったり、「その程度の話ならみんなしてる」といった批評的言及すら、憚られる。

*2:端的な事実として、本当に逸脱した人たちの批評的な仕事は、レベルが低い。ありていに言って、わざわざ取り上げるに値しない。ここではその事実は踏まえた上で、背景を成す構造に触れているが、それは「低レベルに維持される」ことの理由の一端でもあるはず。

*3:「被差別民がやっているから肯定される」という図式は、差別であると同時に、仕事への正当な評価を潰してしまう。 「被差別民ではないから評価されない」というのは馬鹿げている。