「その体験は、完全に無駄だった」のか

髭男爵・山田ルイ53世「引きこもりは完全に無駄

 人生の豊かさという意味で完全にロス。みんなと一緒に楽しく勉強して遊んだ方が絶対にいい。人生設計的にも苦境に追い込まれますからね。美化するのは違うと思うんですよ。

 引きこもったら、不登校になったら、後々どれだけしんどいことになるかがよくわかります。ツケは自分で払うしかないんですよ。よく歌詞で「歯車になりたくない」ってありますけど、歯車、親の敷いたレール、めっちゃいいですよ。ドロップアウトすると、こっちは純正の部品じゃないから組み込まれるのはなかなか難しい。



《その体験は、完全に無駄だった》――
病気・貧困・事故・犯罪被害・障害・医療過誤など、
「あるよりは、ないほうがいい体験」について、つねに問われ得るモチーフだと思う。


安直な美化は、弱さゆえのイデオロギーであり、必要な問題意識をかえって抑圧してしまう*1。その逃避的な態度は、じつは体験を受け止められていない。


むしろ重要なのは、周囲に迷惑をかけてまで追い詰められたことから、どういう闘争のモチーフを持ち帰ってくるか。それは、より根本的な《肯定》でありつつ*2、体験のたんなる「全面肯定」ではない。
以前の自分からは思いもよらないテーマでも、今の自分にとってあまりに自明で、必然性の強さに満ちたモチーフ。それをどう再構成できるか*3。これについては、《体験の内側から》やり直してみるしかない。既存の言語には、ここで生産される、イチからやり直される問題意識は書き込まれていない。


ここの部分を描き出せる学術や報道の言語が、なかなか見られない。これも自分で作り直すしかない。



*1:cf.『引きこもり狩り』について▼たんに全面肯定するのでは、これからも「ひきこもることしか出来ない人」はどんどん増えてよいことになる。また引きこもり状態は、あくまでご家族の犠牲の上に成り立つのだから、「全面肯定」論者は、この負担コストを考えず、中央政府のような命令で「ご家族への強制労働」をさせようとしているに過ぎない。

*2:ニーチェ的な《肯定》を、私はこう理解している。

*3:単に独善的なワガママには、必然性の強度はない。