id:essa さんが、「社会の中の極小値=特異点」と見る比喩について、詳しく書いてくださってます*1。
「特異点」という言葉は、僕も数学や物理学の一般向け解説書で見かけて以来、ずっと気になっているのですが、ソーカルの批判などもあるし、この理系概念をどう使えばいいか、あるいは使うべきでないのか、考えあぐねているところです。 ひとまず、「議論の刺激になればいい」というぐらいに受け止めて、次のようなメモを書いてみることにします(essa さんへの批判やレスポンスと言うより、「特異点」という比喩の射程を確かめたい、という感じです)。
- ひきこもり=特異点=「社会の構造上、不可避的に生じる極小値」と考えると、「社会からはひきこもりはなくせない」となってしまうが、ひきこもり状態を身に引き受けた個人としては、自分が「不可視の暗部」ではなくなるよう、努力せざるを得ない。
- ひきこもりは、「居場所がない」(放っておけば潰されて消えるしかない)という問題。 しかしブラックホールは(たとえば銀河系中心の巨大ブラックホールのように)それ自体が時空の構造形成に確固たるポジションを持っているし、数学の特異点は「必然的帰結」。
- 「ひきこもりという特異点」が「法則の成り立たない点」だとして、その点(point)はみずからの単独性(singularity)を放棄して、「法則に従う周囲」に同調すべきでしょうか。
- 「法則に従わない」を、「制度の規範に従わない」と見れば、「特異点=脱社会的存在」ということになります。
- 「周囲に順応するため、特異性を放棄する」には、「洗脳」という要因もあって難しい。 「自分へのこだわりなど捨てて、無心になって順応せよ」は、しごく真っ当な言い分であると同時に、危険なメッセージにもなり得る。
- 特異性は、「自意識の問題」だろうか、「構造的配置」だろうか。
- 物理や数学の「特異点」は「人間には改変不可能の法則(論理)」による帰結ですが、社会的に発生する最弱点としてのひきこもりは、どこまで「不可避的に生じる」と言い得るか。
- 「最小値が存在する」ことは不可避でも、「排除されてはいない」を目指せないかどうか。
なんというか、破綻スレスレの(いや破綻してる?)きわどい記述ばかりですが、ちょっとは刺激になり得るでしょうか…。
こうやって書いてみて思ったのですが、やはり「理系概念の比喩的転用」は、「話を面白くする」(刺激になる、エンターテインメントになる、啓蒙的効果を持つ)という以上の意味はないような…。
理系概念には「不可避的運命」というニュアンスがつきまとうので、政治的な緊張関係をともなう話にそれを用いることには、やはり慎重であるべきかもしれません。
ただ、最近は「経済物理学」という言葉も登場しているそうで…。 信頼すべき可能性があると言えるんでしょうか。