- 既存の制度的専門資格(医師・学者・臨床心理士など)を養成するプログラムにおいて、どのような「専門教育」が為されているのかを、本当にクリティカルなニーズとの関係において検証するべき。
- それぞれの専門性を問い直すと同時に、その専門的役職にしかできない「必須のミッション」も確認せねばならない。 【たとえば「発達障害」については、多くの医師は何も知らない(教育を受けていない)。 しかし診断の権限は、医師にしかない。】
- 「ひきこもり」は、さまざまなジャンルの専門性――社会学・臨床心理・精神医学・福祉・公共哲学など――にとって、デッドロック(deadlock、ゆきづまりの点)になっている。 既存の専門性の手続きが、うまく機能しない。
「本稿が意図しているのは,ひきこもり状態においては社会的行為が激減すること,そのために他者との交流する場面も喪失し,社会学が分析対象とする諸社会的行為が縮減され,社会学は現象を記述する言語を持ち得ないということである. もっとも重要なことは,ひきこもり状態における当事者を記述する言語を社会学が(社会的行為に対して言及する学問である以上は)持てないのだというその一点である.」
【井出草平(id:iDES)氏の修士論文『「ひきこもり」の社会学的考察』(大阪大学大学院人間科学研究科)、注55より(強調は引用者)】
- 「ひきこもり問題の専門性はどのように構成されるべきなのか」は、きわめて政治的な問いである。 それは、権力の構成のされ方を決めるのだから。
- 「ひきこもりに取り組むためには、何を勉強(資格取得)しなければならないか」の見解に、その人の政治的主張が表明される。 医学か、心理学か、薬学か、労働問題か、精神分析か*1。 単に不平不満を漏らすのではなく、「このような方向で専門性は語られるべきだ」ということを、具体的に主張するべき。
- たとえば、「ひきこもりは病気ではない」ということによって、政治が動かない(予算がまったくついていない*2)し、専門性についての議論が成熟しない。 既存の公共圏のロジックでは、ひきこもることは、「自由意志と愚行権の行使」でしかない。 ▼「不登校は病気ではない」というスローガンは、奥地圭子と長田百合子の両氏が掲げている。 【もちろん、だからといって、「病気であることにすれば解決する」わけではない。】
- 「ひきこもりは、精神障碍でも身体障碍でもない、《自由の障碍》と言える」(斎藤環)という話を、原理的に考える必要がある*3。
- この定義づけは、専門性を再考するための問いのフォーマットであって、レッテル貼りの問題と考えるべきではない。 ▼そもそも「自由の障碍」というカテゴリーでは、利用できる福祉インフラはない。
*1:ニューサイエンス系の神秘思想を口にする者もいる。
*2:『若者自立塾』など、「ニート」関連予算は組まれたが、「ひきこもり」固有枠での予算はまったくない。
*3:参照:「チャット大会:ひきこもり・医療化・障害理論」(『成城トランスカレッジ!』)