「専門性」メモ 4 【1】 【2】 【3】 【5】 【6】

  • 傷は、すでに生きられてしまった引き受けのように成立している。
    • つねに立ち返ってこざるを得ない、現実的なもの。 「本人の意思を超えてまで」立ち返ってくる。
    • 傷に向けての不可避の回帰と、その場所でなされる事後的な分析労働は、ナルシシズムと踵を接するものの、安易な自足は内発的に許されていない。 これはそのまま、倫理的な模索といえる。
    • 反復強迫としての公共精神」という言い方は可能か。

 「論究する Erörtern とは、ここでは先ず場所 Ort を指示することを意味する。 次にそれは、場所に注意することをいう。 場所を指示し、場所に注意するという二つのことが、論究 Erörterung の準備手段である。」
   『ハイデッガー選集〈第14〉詩と言葉 (1963年)』p.5




  • ひきこもり当事者に対して「公正さ」が要求されるべきであるとして、しかし社会は、公正にはできていない。 そこに最初から欺瞞がある。
    • 逆に言えば、ひきこもりをめぐる徹底的な思索と、そこにおける「ひきうけ」の胚胎は、それ自体がそこから為す「公共的な取り組み」の萌芽かもしれない。 ▼なんとも逆説的なことに、私秘性の極である「ひきこもり」に取り組むことにおいて、《公共的なもの》が徹底的に試行錯誤されている。


  • 「当事者であること」は、専門性の一翼を成すものであるとして*1、しかしその位置づけについては、厳密に検証する必要がある。
    • 「当事者・経験者であること」は、往々にして「自分の個人的都合を口にしているだけ」であり、そこで表明されているニーズや専門性の公共的性格については、吟味されるべき。 ▼経験当事者であるからと言って勉強しなくてよいなどということはない。 逆に言えば、既存の専門性に同一化すればよいというものでもない。
    • 「専門性を問いに付す」という、その欲望の鮮烈さ・切実さが構成される場所(のひとつ)としての、当事者性。
    • 不登校の業界では、「運動体 vs 医者」という専門性主張の対立図式があったが、専門性そのものを徹底的に問い直すメタな問いのテーブル(フォーマット)が、うまく機能してこなかった。 ▼「当事者の声」は、公正さにのっとった「問い」をうまく整備するための参照点であって、無条件に言いなりになったり崇めたりするべき声ではない*2


  • 適当にルーチンワークをこなしているだけの人、つまり自分を「専門家」として厳格に律する意識のない人でも、何らかの職業に属して仕事をかたちにしようとすれば、ある「専門性の方向」が(無自覚的にでも)生きられており、そこにプライドと承認への要望が賭けられている
    • 「優秀であるかどうか」の前に、専門性が暗黙のうちに踏襲する「専門性の手続き」を、問題化するべき。 ひきこもりにおいては、《専門性》の枠組みこそが再帰的に問い直されている(理論的にも臨床的にも)。
    • ひきこもり当事者の苦しむ「底なしの再帰性*3は、専門性そのものの再帰的問い詰めを要求している。 「私はひきこもり問題の専門家です」という安易な自称を、ひきこもり当事者の過酷な再帰的自意識(過剰に醒めきった合理精神)は、認めてくれない。



宮台真司連載・社会学入門 第一回」:

 新しい秩序問題を明確に意識したデュルケームの言い方に倣えば、契約の前契約的な前提、権力の前権力的な前提、宗教の前宗教的な前提──「前◯◯的」とは◯◯の中では不透明だという意味──を徹底的に考察することが、社会学の目的だということになります。

に倣って言えば、「専門性の、前専門性的条件」。



*1:当事者主権 (岩波新書 新赤版 (860))』、「当事者学」。 上野千鶴子貴戸理恵など。

*2:参照1:『こころの科学 (2005年 9月号) 123号 ひきこもり』掲載の拙稿:「《当事者の語り》をめぐって」 ▼参照2:「レポート:『不登校は終わらない』

*3:宮台真司など