「俯瞰的拒絶」と「接続して味わう」

「現場との緊張関係でなされるメタ語り」にこそ、最もスキャンダラスで甘い果汁がないか?


僕はといえば、一人で考えているとついすぐに「世界全体を拒絶して」、「世界全体を一挙にどうにかしてやりたい」というトンデモ系思考に埋没してしまう(当ブログでもたびたびお見せした)。これは世界に興味を失った僕の自己防衛の仕組みだと思える。肉体ばかりでなく精神まで世界から撤退させ、もって世界を一挙に俯瞰し(こうなるとディテールはどうでもいい)、そのすべてを一括して「変化させる」こと。物理学的な意味で「解釈するのではなく変える」こと――妄想的野心としか言いようがない。

この感覚を内的に諦めさせるのが、恋愛系の尊重体験ではないか。「世界が変質」してしまっては、「この人」が消えてしまう。その人との関係における果実が失われる。「それは困る」――そのときにのみ、「世界を受け入れる」忍耐が始まるのではないか。「全体を一括して俯瞰して拒絶する」のではなく、「1点において世界に接続されながら我慢強くディテールとつきあう」。世界に接続されない間には、日常のディテールとのつきあいは修行でしかない。そこに果実はない(果実は「拒絶の感覚」「麻痺」にのみある)。接続された1点との関係においてのみ僕らは世界を味わえる。