無意識――実感・構造・郵便

「豊かな実感」をもたらすもののように思われる「夢」。
フロイトラカンは「切断」を重視し、ユングは「全体的融和」を重視する(というふうによく言われる)。「実感信仰派」にはユングの方が受けがいいみたい。


フロイトは誰だったか*1に、「最強の詩人」と形容されていた。 
ラカンは「構造主義」と言われるが、彼の発言の影響力にとって詩的要因は無視できないと思う(彼以外の「構造主義者」にも似た事情がないか)。 → 「構造」を強調する人物の影響力が詩的なものに支えられていた、というのは興味深くないか。
ラカンはどこかで「分析家には詩的才能が要る」と言っていた。


ポスト構造主義」と言われる人たちの発言は、「意味」から逃げ、「実感」から逃げるものだったと思うが、読者にはすっかりわけがわからなくなり、かえって「粗悪な詩」のようにしか読まれなかったのではないか(というのが僕の体験)。「意味にも実感にも与しないことに悦に入る」というふうにしか見えなかった。


無意識を「届かない手紙」に喩える東浩紀氏の議論は、「構造」でも「実感信仰」でもない別種の無意識理解の道筋をくれたように思った。彼の提示する垂直軸の議論(メタ語り)に、僕はいつも強い印象(実感)を得ている。
僕にとって東浩紀氏は、「当事者語り」をしている方だ。*2



*1:誰だっけ?

*2:でもこれは、ご本人にとっては不本意な評価だろうか。『存在論的、郵便的ISBN:4104262013 のあとがきで、東氏は「僕のつぎの哲学的な仕事は、・・・・『この私』とは徹底して無関係なものになるべきだ」と語っている。