「非人間的」

一つはっきりした指針を得られたように思うので、備忘録的にメモしておく。 これはまだ最初の着手段階のメモ。


イベント「「人生にYesNo枕!」〜摂食障害・ひきこもり・ニートの人間関係学〜」で同席した際、樋口明彦氏がおっしゃっていたこと(大意):

 僕が抽象芸術が好きなのは、それが「非人間的」だからです。

その場では何も言わなかったが、実は横で聞いていてシビレていた。


三脇康生氏の発言で僕が最も感銘を受けたもの:

 「分析の consistency

この遂行は、人間的な《交流》と相容れず、それゆえ「人間味がない」「アタマがおかしいんじゃないか」などと非難されがち。 ▼《交流》が《交渉》より優先すると、抑圧が発生する。


斎藤環氏の臨床面接の方法:

 「親切な宇宙人」 「味方のロボット」



ある教育社会学*1(大意):

 教育が、甘ったるいヒューマニズムばかりで語られる。 社会的な視点がない。 いわば「マクロ教育学」が要る。



教育は、教員側から見れば労働行為。教育には、「資本主義社会における労働力商品の生産」という側面があるが、教育論争はこういうドラスティックな視点を嫌うのか? ▼「教育過程は、労働過程である」という観点からのドライな分析が必要。 ▼それは必ずしも「資本主義のために」云々ではなく、“人間主義”によって曇らされない目で冷徹に現状を分析する、ということ。【マルクスによる資本主義の分析(『資本論』)にヒューマニズムは関係ないはず】


関係性の中に巻き込まれてあることが「人間的」であり、関係の埒外であることが「怪物」であるならば*2、社会行為の消失した「ひきこもり」は「怪物=非人間的」であるだろうか。


不登校は、まずは社会復帰に向けての「治療行為」の対象と見られた(稲村博)。そこにあったのはいわば「非人間的な医療主義(治療主義)」であり、1980年代に始まった不登校肯定論(「不登校は病気じゃない」「選択されたものとしての不登校」)は、「人間主義ヒューマニズムによる不登校の擁護」であり、一種の「人間復興(ルネサンス Renaissance)」と言える。
私が「不登校→ひきこもり」という経験と当事者としての活動において繰り返し直面したのは、いわば人間主義のアリバイを得た暴力」だった。*3
あいだをつなぐロジックを、私はまだ手にしていない。 しかし今の時点での私は、自分の新しい指針をひとまず「非人間的」と名付けてみた。*4
東浩紀氏はご自分の「動物的」という概念に対比させ、ひきこもりを「人間的」と評しているが、これは「不登校・ひきこもり」支援が「人間的」に成立してきた事情とも関係あるはず。 不登校・ひきこもり当事者の多くは、「思いやり」や「ふれあい」といった《人間的》要素をことらさらに求めたがるし、それは一面では――少なくとも初期段階では――不可避とも言える。 ▼しかし――今にして思えば――私はこの「人間的」の暴力性に激しく怒っている。


単なる医療主義や差別主義としての「非人間的」ではなく、フロイト派のいう「死の欲動」「反復強迫」に基づいた形での、「終わりなき分析」の冷酷な遂行としての「非人間的」。 ▼安直な感動を強要する安っぽい「人間主義」が、思考停止を誘う暴力となっている。 「感動」への禁欲と、「非人間的」の維持が、ものを考えるときに必須なのではないか。 ▼感情に負けて「人間的に」振る舞ってしまうことは、私にとって《譲歩》でしかない。


こうした話は、「人間力」と関係するだろうか? 【まだよくわからん】


*1:苅谷剛彦氏だったはずだが立ち読みだったのでうろ覚え

*2:The COOL! 小説新潮別冊 桐野夏生スペシャル (Shincho mook)』所収の、斎藤環氏による桐野夏生論より。

*3:最近では、東京シューレによる貴戸理恵氏への糾弾が記憶に新しい。 かといって、貴戸氏自身が「人間主義」を捨て切れているかは疑問。――で、僕も他人事でない。

*4:宮台真司氏の分類を持ち出せば、「自主性」は《人間的》、「内発性」は《非人間的》と言えるだろうか。 ▼僕はもちろん「内発性」を選びたい。