選択肢

 「優秀な作家は異邦人(亡命者)として母語の外に立つ」というモチーフを追った Ririka さんの日記 コメント欄から。


僕のコメント。↓

 疎外感やイジメに苦しんだことのある人は、意識的努力によって「外国語のように話そう」ではなくて、「どうして自分のことばだけ外国語のようになってしまうんだろう」だと思う。その受動的困惑を事後的に「倫理」として捉え直すのが「外部」とか「回避」とかの話じゃないか。知的にはあんまりたいした話じゃなくても、自分のやむにやまれぬ困惑が迫害を受けないためには大事な話になってくる。
 見知った共同体に回収不可能だと思われた困惑(孤心、切実さ)が、言葉にされた途端に予想外のところに受け入れられて、遡及的に共同体を発見したりする。 → 自明の共同体を再確認するだけの(凡庸な)作品と、「みずからの共同体を創り出す」作品との違いではないか。

それへの id:Ririka さんのレスポンス。↓

 ueyamaさん、わたし自身の関心に引き寄せて書いてしまいますが、「外国語」という比喩がこの場合に適切かどうか、その比喩で何を表わそうとしているのかが大事だという気がします。たとえば、上山さんの著書にくりかえし出てくる「価値観の違い」ということを言ってるのだとしたら、おのおの価値観が異なるのは当然で、それだけでは何も言ってることにならないので、「ひきこもり特有の価値観」とか「ひきこもりに多い傾向のある価値観」を具体的に抽出できるならそうするとかして、異なった価値観の持ち主たちが同じ社会で生きてくためにどのようにしたら、という話につなげてゆけるならそれが望ましいかなぁ、と。とてもむずかしいけれど。
 それから、サル学者・正高信男著『ケータイを持ったサル』が今日届いて、ひきこもりに言及した箇所があったので一部引用しますね。ひきこもりに直接言及した箇所は一章だけだけれど、日米の子育て観の比較や「関係できない症候群」など関連しそうなテーマもあるので興味を惹いたら手にとってみてください。

以下、『ケータイを持ったサル』(ISBN:4121017129)からの引用。↓

 「ひきこもり」と呼ばれている人々は、自分の家のなかにすら、「家の外」と認める空間があることが少なくない。もっとも極端な場合は自室のみを「家(うち)のなか」と把握し、その外へ出ることを拒む。親ですら、私的領域からは排除される、いわば異邦人と化す。他方、ルーズソックスに代表される「ふつう」の若者では、正反対に通常の空間すべてにおいて、ひきこもり系の自室のような感覚でいられるのである。つまり、どこでもくつろげる。差異をあえて挙げるならば、異邦人の棲む異界(社会)を恐怖と感じるか、あるいは無感覚でいられるかという点にあるのかもしれない。結果として、前者はひとりでしか食事を摂れないし、後者は電車のなかでも平気で化粧をし、ケータイで会話することができるのだろう。では、なぜ一方は恐怖を覚え、一方は無感覚でいられるのか。
 ……転機が思春期のころ(自我の芽ばえるころ)にやってくる。自己実現を成すためには、「家の外」へ出かけていかなければならない。だが、そこには家のなかにはない軋轢がある。軋轢は挫折を生む。挫折した自分、あるいは自分で思い描いたように自己実現できない自分を許せないと否定的態度を取ったならば、ひきこもり系へ向かう確率が高くなる。反対に、思い通りにならなくとも、それは非が自分にあるわけではないと徹底的に居直り、「家の外」という環境までも「家のなか」とみなすことで今までどおりやっていきましょうという態度を貫くと、ルーズソックス系に属するようになっていくのかもしれない。
 ……目の前のハードルを越えられないと自覚した時、自分を非常に安易に社会と切り離してしまい、そういう自分にひらき直ったり、逆に極端に否定的になってしまうのではないだろうか。



とても大事な問題提起をされているので、今後の僕の宿題にしたいのだが、ひとまず今の時点で答えられることだけを以下に。




●ひきこもり当事者の価値観をいう場合、「積極的選択」よりも「追い詰められた」面を強調する方があたっていると思う。状態像は似通うにもかかわらず、消極的に置かれてしまった状況でしかないので、それ自体には「特有の価値観」といえるような連帯要因はない。(というか、基本的にみなさん単に絶望している。)
消極的選択として当事者は同じような状態に落ち込むが、積極的選択としてどのような価値観を選択するかはバラバラ。(強いて言えばとても保守的な人が多い。自分が社会参加したあとに「ひきこもり否定派」になることもある。また「専業子供」を主張する勝山実氏のような例もある。)


●僕が自著(ISBN:4062110725)の中で「価値観」を強調したのは、「ひきこもり」に直面したときに、単に「アイツらを早く再順応させろ」とだけ考えるのか、それともそこにものを考え直すきっかけを見出すのか、といった点を強調したかったから。
「あきらめてないでお前も頑張れ」というのは、絶望している人間に対する「お前も順応しろ」という説教でしかないが、指針と人間関係次第では「励まし」の意味を持ち得るかもしれない。


●価値観の違いを口にするだけでは確かに何も言ったことにならない。「異なった価値観の持ち主たちが同じ社会で生きてくためにどのようにしたら」いいかが大事なのはおっしゃる通りで、僕がずっと考えているのもそれです。「生きる選択肢の多様性」とかのスローガンはあっても、「金を稼ぐ」段で人は篩(ふるい)にかけられる。 → 「自分を守ろうとすると金が稼げない、金を稼ごうとすると自分を守れない」というジレンマに苦しむ。 → それでも生きていこうとするなら、自分たちなりに金を稼ぐ方法を作っていくしかない。(オタクとヒキコモリの大きな違いは経済力。オタクには独自の「送り手 - 受け手」の回路がある。)
社会的合意形成を目指す「運動体」と、生活自立を目指す「事業体」の両側面が必要ということ(『当事者主権』ISBN:4004308607)。ただし「ひきこもり」がやっかいなのは、こうした努力を支える基本的な欲望(「生きていきたい」など)さえもが枯渇しがちで、「必要なニーズ」が主張されにくいということ。
はっきり言えば、ひきこもり当事者は欲望生活における圧倒的弱者となっている。(そこで僕はあらためて「言語」の重要性を痛感せざるを得ない。)


●僕がある選択肢(たとえば言語訓練や地域通貨など)を提示しても、それに反応する「ひきこもり当事者」は一部だと思う。人の好みはさまざまなので。この場合には「当事者か否か」(それは往々にして排他的レッテルだ)ではなく、「提案に反応してくれたか否か」で関係を作っていくことになる(だから当事者以外もアリ)。積極的な提案を試みる者としては、押し付けるのではなく、「作って待つ」以外ない。「選択肢」をキーワードにいろんな具体案が試みられるべきで*1(もちろん「閉じこもる」という選択肢もある)、さまざまなジャンルや方法論を参照しているが、試行錯誤中としか言いようがない。
「順応させる」方向ではなく「夢中になってもらう」方向を目指すべきだと思うのだが・・・。(夢中にさせることに成功すれば、「支援者」でなくとも支援したことになるのではないか。)


●「すべて家の外」(ひきこもり系)か「すべて家のなか」(ルーズソックス系)かという分類はとても面白い。具体案のヒントとして今後も考えてみたい。
というのも「ひきこもり論」は、「ではどうするか」との緊張関係になければほとんど意味がないからです。多くの当事者も家族も、具体案を生み出さない「ひきこもり論」にウンザリきています。・・・・もちろん、どんな議論からどんなアイデアや効果が飛び出すかはわからないので、いろいろ試してみたいのだけれど。(論じること自体に効果がある、という言い方もできる。)



*1:id:hikilink さんの「ひきこもり外出マニュアル」もその1例