状態記述 と 価値評価

 商品の価値形態分析*1は、「状態記述」であって、「価値評価」は含んでいない。(「個物が商品になるなんてケシカラン」とか「よくぞ商品として自己実現した」とかいう話ではない。)


 他者の言説(が私のことを語るとき)には、必ず「価値評価」というものがついている。(言及したということは、そこに何らかの価値評価があったのだ。) だが、問題を的確に考えるには、ひとまず状態記述価値評価とは分けて考えるべきだ。
 これは自分の言動を自分で判断するときにも言える。私は働いている時、あるいはあらゆる瞬間に、「コレをしている私をどう評価するか」という強迫観念に追い立てられている。しかし多くの局面においては、私は自分の言動についてその限られた機能面に注意を集中すべきで、つまり状態記述のフィードバックに終始すべきで、そこに「大文字の(つまり人生とか世界全体における)価値評価」をいちいち差し挟んで憂慮すべきではない。(小文字の価値評価、つまり与えられた局限された文脈内での機能的自己実現に見限るべき。)


 「一定量蓄積された的確な状態記述」が、「的確な価値評価」の前提だ。状態記述と価値評価とを性急にゴッチャにすべきではない。これは他者が自分について語るときにも同断。状態記述が間違っていると思ったらそれ以上踏み込んでカリカリ考える必要はない(状況上一言はさむ必要は出てくるだろうが)。むろん、他者からの状態記述には私の視点にはない記述が含まれるから、それは(その他者の私に下した価値評価とは別に)恩恵をこうむればよい。
 他者からの私への言及や指摘には、(他の文脈からの)思いもよらぬ状態記述と価値評価が成立していることがある。それによってこちらの言動が別フェーズへ移行できるかもしれない。


 「インナー世間」においては、それが為す私への状態記述と、私への否定的評価とが、ピッタリ一つになっている。だから私が自意識でもって自分を記述した瞬間に「こんな私なんてダメだ」というふうにベタベタになる。いっぽう自己相対化とは、自分への状態記述が必ずしもある価値評価に直結しない状態だ。