「価値ある現実」と子どもの絵

先日の芸術の話について、読者の方からいただいたメールより*1

 現代芸術に共通するものがあるからということで、子どもの絵を「芸術」として見る人たちもいます。でも、子どもの絵に関しては、発達の目的は芸術ではなく、現実を捉えることとか、成熟した大人になること等にあると思います。



発達すべき前段階にあって、見るべき現実を見られていない未熟さや弛緩でしかない「子どもの絵」と、むしろ芸術の最高段階にあって「これこそが見るべき現実を見られている」と見なされる《現代芸術》と。
幼児性にこそ故郷があるのではなくて、見るべき現実はまだこれから気付かれ構成されるべきである――とはいえ、見る価値のある現実など残されているのか。 小難しい議論をしても、価値ある現実などもたらすことができるのか。


「現実を見る」という行為は、あるいは「現実」という理解そのものが、一定の歴史的な仕方で《構成されたもの》である――というのが、一部の人たちの理論的な考え方なんだと思う。(そのように語る自分自身が一定の仕方で構成されている)

【追記】

気になっているのは、不登校ひきこもりの支援業界が、いわば「子どもの絵」を無条件に神秘化して礼賛するような、ロマン主義の状態にあること。泣き叫ぶ不登校の子どもこそが、より根源的で生き生きとした「ほんとうの状態」に近いのだ、というような*2。 ▼そういう「根源的な」ことを、神秘化やロマン主義とは別の仕方で慎重に取り扱う必要がある。私が制度論を参照するのは、そういう文脈でのことだ。





*1:私のレスポンスは、いただいたメールの趣旨とは違うかもしれません。

*2:そのとき《当事者》は、必然的に「子ども」「若者」のイメージになり、高年齢化した者は疎外される。 これはたいへんな抑圧だ。 【参照:「不登校中心主義」】