思考メモ

 自分の勉強不足・言語の貧困さにウンザリしているが、それでもここから始めるしかない。ベタですが。
 単なるメモなので面白くないですが、何か意見とか「ここ間違ってるよ」とかあったら教えてください。



  • 言語を身に受けて生きなければならない (個人の社会化 ←→ 単独の生)
    • 「ナマの動物として生まれてきた個人が、言語を身に受けた上でどう生きるか」・・・あらゆる思想が関係してくる。「意識的選択」の問題であり、「与えられたものの引き受け」。


  • 現象経験の人間化。 とりもなおさず「否定」と「労働」の問題。
    • 「動物的」なものを経験しなくていいように/労働に従事する必要がないように/身体を経験しなくてすむように/商品に出会わなくていいように(欲望を刺激されて動揺する必要がないように)/<現実>に直面する必要がないように → ヘーゲル的「絶対知」の境地を目指した? 工学的に実現された絶対知の境位:「もはや悩まなくて良い」=「もはや労働せずとも良い」・・・・現象経験の最終解決。葛藤の殲滅。


  • 動物には労働の必要がなく、人間は労働せねばならない。
    • ポストモダンにおいて人間的であるとは」というが、どんな時代になろうが夢がなくなろうが「労働」は続く。そして「ひきこもり」が最も責められるのは「労働しない」ということにおいてだ。「働かないお前らは人間じゃない」。*1
    • 働く=自分という商品を手に入れるため(昔ふうに言えば「みずからを労働力商品として再生産する」) → 「働かない」=「自分という商品を欲しくない」。(私はすでに自分という商品を享受することに興味を失っている。客体としての自分をすでに欲していない。)


  • 私たちは、自分という商品を欲することにおいて資本主義社会に組み込まれる。
    • 「ひきこもりは“ボイコット”か(柄谷行人)」。社会成員を馴致するアイテムとしての無数の商品(何を作っても、消費財のオプションを別に用意したことにしかならない)。そのコントロールからの逃走としての引きこもり?*2 → いや、そう思っても「ひきこもり」と名付けられた瞬間に新たなコントロールが始まっている(東浩紀・宮台真司)。 → ドゥルーズ「再属領化


  • 不登校やひきこもりの支援活動が派閥化しやすいのは、それがまさに「人間的に生きるとはどういうことか」という問いを巡るから。
    • 学校教育は「養鶏場のよう」と言われ、社会は「非人間的」と言われる。そこでは「人間的」という言葉が強力なイデオロギーとして機能している。「のびのびと」「自由に」といったキーワード。(cf.斎藤環氏のロジャース批判)
    • ひきこもりを状態像としてどう分析し描き出すか、というのは、ひきこもり当事者の置かれた状況を直撃する政治的言説となる。 → 「動物的」「人間的」と言ってもほとんどの人はその厳密な定義など気にもせず聞き流すだけなのだから、影響力のある東浩紀氏がひきこもりを「人間的」と表現してくれたのは、ひとまず慶賀すべきだと思う。




  • ★葛藤は死ぬまで消えない。(それが現実が現実であり続けるということ。現象はついに人間化されないまま残る。ココロせよ。)
    • 大きな物語が消えた、というのは、「大文字の戦いが消えた」ということ。局地戦を戦うしかない。ただし普遍的なものを目指して。 → 「表立った分かりやすい戦い」と、「秘められたモチベーションとしての無意識的現実」?
    • 永遠の対話=永遠の葛藤。私は1個の傷口であって、問題はより見事に葛藤を生きるということ。「解決」はできない。


  • 葛藤は一度に全てを悩むことはできない。悩みと処理の局所性(物質性)によって。
    • 目の前に見ている事象の全てが受け入れられない(自分の情報処理を局所化できない)理由として、空想的ミッションへの矜持に満ちた予感がある。(「わたしはこの目の前の事象のような弛緩した現実や会話には関わらないぞ」「こんな、ただ悲惨なだけの現実が私のミッションとは思えない」)・・・・これは私の離人感を支えていた。すべて「防衛機制」だった気がする。そもそもなんでそんな自己隔離が必要だったか? 耐えられないからだ。現実の全てに。


  • 「当事者」というポジション設定。
    • 葛藤を置き去りにしてきた、という罪悪感。わたしは葛藤を徹底して生きるだけ。「当事者」とは「葛藤を生きます」「葛藤を我がものとして引き受けます」という諦めに満ちた指針表明というぐらい。というか、それしかできないのだ。この葛藤は一生の問題だ。私の意志的選択に関わらず私は葛藤し続ける。その葛藤がなんらかの成果を生み出せば慶賀すべき。それだけだ。
  • けっきょくは同じ土俵で勝負せねばならない。(ただしネガティヴなものへの親和性。)
    • 「ひきこもり」というのは問題設定にすぎない。そこからあらゆることが語り得る。しかし極めつきの実力主義になる。あたりまえだ。


  • フィクションや作品に触れ続けること=葛藤に触れ続けること?
    • フィクションに触れる(没頭する)ことによって生じる「腋の甘さ」が恐い。私は四六時中「現実の葛藤」に囲繞されている。その葛藤に「内面化された世間」からの圧力がどれほど関係しているか。


  • 私は明らかに、リベラルアートよりも「制御の学」を目指している*3。制御の学によって世界全体を「変えたい」と思っているのだ。
    • 私が各々の学問に興味を示せなかったのは、どの学問も「タコツボ的」であって、グランドセオリーを欠いており、そして制御の学として局所的なものでしかなかったからではないか。
    • 「誘惑」を目指す私は、リベラルアート的であることによって誘惑するだろうし、「機能的・操作的」であることによって誘惑するかもしれない。 → そこで結局は「他者の欲望」にアピールする必要に直面しているのだ。


  • 現実を処理する能力・・・情報能力葛藤能力
    • 情報能力はあるが葛藤能力はない人たち ←→ 葛藤はするが情報能力はない人たち


  • まったりと脱力する以外の生き方はもはやない? 
    • 苦しんでいる人だけが状況を変えようとする、ただしそれはほとんど成功しないんだ。
  • ネタで引きこもっている(「あえて引きこもっている」)人と、ベタで引きこもっている人。
  • 「世間は間違っていて自分は正しい」「自分の方が優れている」と思うなら、ケンカしてくれよ。それによって恩恵こうむる人もいるんだから。




*1:昔の狂人の定義としての「働けない」?

*2:消費財相手の安住場所がない → 「社会に棲めない」

*3:http://www.miyadai.com/message/?msg_date=20031023