「外部」と「階級」

経済条件のみならず、知性においても「自分は外部に放逐されている」と思っている人間は、卑屈な嫌味を言うことで相手に影響力を行使しようとする(だが、無視されればそれまで)。 一般向けイベントで「ひきこもり」について話すと、同様の発言に直面することがあるが、彼らは生活のため、自分の周囲の現実(外部)に徹底的に振り回されており、つまり外部を拒絶することができないポジションにいる。外部に忙殺される被害者意識に苦しむ人間は、外部を遮断しても生きていられる(と見える)人間が許せない*1。 嫌味によって相手を傷つけ、なんとか自分自身をそうした連中の「外部」として提示しようと試みる(無力感に苦しむ本人からすれば、現実的に言って戦略はこれしかないのかもしれない)。 ▼末端の労働者は、自分が誰かの「外部」になることを許されていない。上司や顧客の「外部」になるとは、すなわち叱責やクレームの対象になることだ。こうした人物にとって、「社会に内部化された人々」および「彼らに牛耳られた現実」――つまり《外部》――は、隷従の対象である。自分が手綱を握って呼びかけたり、自立的に再構成を試みる対象ではない。能力的にもポジション的にも、そのような力は自分にないと考えているし、現にうまくいかない。 ▼あたりまえだが、この話は私にとって他人事ではない*2。 私の自暴自棄ぶりは、外部を拒絶できず、手綱を握る希望がなく、継続的に自己運営する可能性がないように思えるところから来ている。極端な無力感が、四六時中私を押し潰す。この発想は、しかしたぶん妄想だ*3――そう思うところで、立て直しを図っている。
「特権階級にいる」とは、「自分の都合に合わせて外部を拒絶できる」ということではないか。外部に徹底して晒されざるを得ないあり方が「最底辺」。ひきこもり的意識とは、外部を適度に遮断することができないということ。あまりに無防備に晒されすぎているので、外部との接触は即「傷」になってしまう。適度な遮断こそが、外部との交渉的接触を可能にする(これについては、訓練が要る)。 ▼受身の姿勢で、あまりにも愚直に晒されすぎたかつての私。自分の間抜けなお人好しぶりに腹が立つ。



*1:以前も書いたが、こうした嫉妬心は、あまりにも破格に自分より恵まれた境遇の者には向かわない。「自分と似ているが、自分より少しだけ恵まれて見える奴ら」が、最悪の嫉妬対象になる。

*2:運転手であれ何であれ、継続的に仕事をできている時点で、私には手の届かない存在に見えてしまう。

*3:単なる主観ではなく、様々な客観的条件に規定されているとはいえ、抜け道はあるはずだ・・・。