【1月9日追記】 はてブより:

font-da 問われる側としては、問うた先に希望がないから暗いし陰湿になるように思う。ほんま希望ないもんなあ……とりあえず研究者は明るく元気でいるのが大事かも(あー嘘くさい



たとえば中学校でいじめの実情を大人に言うと、加害者らはそれを「チクった」となじります。閉鎖的で陰湿きわまりない関係体質を告発すると、告発した側が「陰湿だ」と言われてしまう。――ここにこそ、“自発的な” 被害の生態がある。 「本人は、みずから進んで仲間に加わっていた、だから問題はない」。 必死に問題を言葉にしても、そういう問題意識そのものが「陰湿だ」と排除されてしまう。こうして、隠蔽の構図が温存されるわけです。妻が夫の暴力を外部機関に相談するのは、夫からすれば「陰湿」だし、「希望がない」でしょう。

私は、自分も関わりを持ってきたひきこもり業界の、集団としての関係体質そのものを問題にしています。一方的に被害者ヅラをしたり、作り笑いをするのではなく、《どんな関係が生きられているか》を、意識より前に生きられてしまったそれを、公開して素材にしようということです。

審査機関は、《加害/被害》という単純な構図ではなく、「どういう関係ロジックが生きられていたか」をこそ、詳細に分析する必要がある。――その解析作業は、行為遂行的に、あるいは作業そのものがプロセスとして、臨床活動になっていると思います。(その活動を共有することに、新たな関係性の営みがある。それを拒絶するのであれば、すでに生きられていた陰湿な関係を押しつけられるだけです。)

この問題は、ひきこもり業界や、「調査」だけにかぎりません。ものすごく射程の広い話です。