社会的不能性としての詩的なもの

 「ひきこもり」という言葉で、自称他称の「ひきこもり」全てをカバーできるとは思わない。僕は僕の切り口で考えるしかない。
 ある作家が、「芸術と人生」という言い方をしていた。芸術への尽きせぬ衝動と、でも「食っていくためには」しなければならないことと。自分の抱えた病やこだわりと、「就職したり商品を作ったりして稼がなければならない」という要請と。ゴッホ、エミリ・ディキンソン、カフカ、など。生きている間に「売れ」なかった人たち。
 ひきこもっている人みんなに芸術的才能があるわけではない。あたりまえだ。でも、芸術家たちの社会的インポテンツを巡って考えられたことどもは、「ひきこもり」を考える上でも参考になると思う。*1
 その意味で、実は詩人の、あるいは詩的なものの命運が気になっていたりする。それが「食える」のかということ、あるいは、そのピュアリティの政治性、といったこと・・・・。僕らは徹底して散文的であるべきなんだろうか。*2

     世俗の業に満たされて
     しかれども詩的にこそ
     ひとは此岸に棲む




*1:そう言えば、僕が京都で地域通貨に関わったとき、アーティストたちが熱心な関心を寄せてくれた。オルタナティヴな生き方、を真剣に模索するのは、やはり「この社会に居場所がない」と感じている人たちだ。

*2:以下の詩はヘルダーリン。渡辺哲夫『シュレーバーISBN:4480842306