村上龍:「自分の中の受容体みたいなものが反応して、必然的なものとして捉えられるかどうか」

あのくらい集中して書いた作品、他の作品でもそうですが、「きっかけ」とかないんですよ。「きっかけ」って、すごく簡単なイメージがあるでしょ。お二人が知り合ったきっかけは? って結婚式で司会者が口にする馬鹿な質問があるけど、小説家が、この対象を小説のモチーフとして使おうとか、本場で勝負するために海外に出るアスリートとか、そういうのは「きっかけ」じゃないんですよ。決定的な出会いとしか言いようがないものです。

必ず聞かれるんですよね。『13歳のハローワーク』を書いたきっかけは、とか。きっかけなんてないよ、というと話は終わっちゃうから、ま、いろいろ話はしますけどね。でも、僕は、そんなもんじゃないと思うんですよ。たとえば、ソニーウォークマンを作った人に、「ウォークマン作ったきっかけは?」と聞いても答えられないはずですよ。殴られるかもしれない。イチローに、大リーグに行ったきっかけは、と尋ねても答えられないでしょう。自分の中の必然性に従っただけでしょうから。僕らの小説もそうなんです。

いまの世の中、きっかけさえあれば誰だってできる、というバックグラウンドに支えられている。やらなかった人は、「自分にはきっかけがなかっただけ」と思いたいわけですよ。でもね、出会いはすべての人にあるんです。それを自分の中の受容体みたいなものが反応して、必然的なものとして捉えられるかどうか。捉えた後に、シビアで科学的な努力ができるかどうか。そういうことなんです。だから、「きっかけ」という言葉にはなんの意味もないんですが、その言葉が非常によく流通する日本社会って何なんだろうとよく思います。

「ひきこもり状態の経験者」である僕が、最もよく受ける質問の一つが、「元気になれたきっかけは何ですか?」*1
「出会い」の要素は絶対に重要だけど、それが「出会い」になるのは、こちらに相応の必然性が準備されていたからであり、それを「出会い」として受け止める開放的な態度と、必然性の星のもとに努力を続ける執着心があったからだ――そういうことか。

  • 気になること3つ:
    • 執着心は合理的なものではなく非合理(デモーニッシュ)なもの。 説教や精神論の問題とは考えにくい。 むしろ、出会いによって「自分で気付く」こと。 自分にインストールされた異常な執着に気付けなければ、内発的な努力が持続するはずはない。 ▼「自意識過剰」から、「無意識過剰」に向かう必要がある。
    • 「リスクを選んで努力する」という要因を重視することにはぜひ同意したいが*2、それだけでは、自己責任論「だけ」になる。 ▼ただ個人レベルの指針としては、そう言うしかないか。
    • カギは、おそらく≪禁止の導入≫にかかってくるのではないか。 「無際限な自由」は、かえって極めて不自由だ。 ▼「自由をもたらす出会い」ではなく、「納得できる禁止をもたらす出会い」が必要であるように思われる。 ▼内的な必然性に基づいた禁止と没頭。


*1:質問者が親御さんの場合、この問いには鬼気迫る切迫感がある。

*2:どういう思想を選ぶにせよ、≪賭けと努力≫は絶対に必要なファクターだ。▼「ひきこもり」においては、それにまつわるインポテンツが問題になっている。