対話的関係の過剰性

 昨日のコメント欄でid:jouno氏に教えていただいた論文ページ。jouno氏がどういうつもりで書いてくださったのか分からないが、読んでみて(僕にはなじみのないジャンルと文体でひどく骨が折れたが)、自分なりに大事な論点をもらった。

 モノローグ的な構想においては、主人公は閉じられており、……彼の行為も経験も思考も意識も、すべて彼はこれこれの者であるという定義の枠内で、つまり現実の人間として決定された自己イメージの枠内で行なわれるのである。彼は自分自身であることをやめることができない。つまり自分の性格やタイプや気質の境界を逸脱すれば、必ずや彼に関する作者のモノローグ的な構想を破壊してしまうのである。(バフチン

 (これは小説における作者と主人公の関係について書かれたことだが、)
 私は、「ひきこもり当事者」という規定を与えられている(本の出版などによって)。それは「これこれの者である」という社会的な規定であり、いわば登場人物としての枠組みだ。しかし私が実際の人間関係において対話的な関係に入るとき、私の語る内容は「ひきこもり当事者」という枠組みにとどまらない、つまり(規定された枠組みに対する)過剰性を持つ。この「関係の過剰性」こそが大事なのではないか。*1
 私は先日、「語られる」存在から「語る」存在へ、と言ったが、そこで目指されるべきはこういうことだったのかもしれない。「語らない」存在は容易に「対象物」となり、対話的な関係から排除される。

 だが他者の意識は客体として、物として眺め、分析し、限定することのできないもので、それとは対話的に交流することしかできない。それについて考えるとは、つまりそれと語るということで、そうしないと、それはたちまちわたくしたちにその客体としての面をむける。*2

 問題はだが、当事者たちがあまりに「対話的関係」に絶望しているということだ。深刻化した当事者にとって、「他者」は単独では現れず、いわば「世間」という塗り壁に塗り込められた「エージェント」のような存在として目の前に現れる*3。「何を語っても、彼らの耳には届かない」。耳の穴はあいているが、でも見えない耳の穴は閉じられているのだ。当事者たちの激昂はここにある。「声が届かない」。
 逆にご家族からすれば、「彼は言葉を発しない」。
 私が最初に要請されたのは、このディスコミュニケーションにおける翻訳係だった。
 今は、・・・・・・・「ひきこもり」という枠組みから得られる全てを掘り尽くしてやろう、ということか。
 このへん、まだ考える必要がありそうだ。



*1:ひきこもりに限らず、一般の社会生活や職業生活においては、「あの人は○○だから」という枠内でのみ発言し行動することを求められるのではないか。そしてそれが、とても窮屈なのではないか、空しいのではないか。

*2:バフチンドストエフスキイ論』ISBN:4309607608、p.102

*3:映画『マトリックス』が思い出される。