昨日のコメント欄から(つづき)

 ひきこもりは「働けない」のか「働かない」のか、というところに議論の焦点があると思う。(「働けない」のであれば福祉的支援の対象であるが、「働かない」のであればそうではない、と。)


 この議論において中心的な役割を果たしているid:kagami氏のこれまでの立場を整理してみる。

  • ひきこもり当事者は、健全な人間として自分の権利を行使しているのであり、あまつさえ「社会システムに組みこまれた私達より遥かに高度の快楽をひきこもりの方は味わっている」。加えて彼はこうしたあり方を西欧の「中世・近代の書物狂などのディレッタントたち(貴族・富裕階級)」になぞらえ、それを擁護しようとする
  • ところが氏はid:Ririka:20031011のコメント欄で、「拒食症やヒステリー、ノイローゼなどは、基本的に富裕階級の病ですし、ひきこもりもそれらのカテゴリの範疇であると考えます。」といい、さらにこう続ける。

 ひきこもりを強制的に治す方法は実はあって、それは「軍隊(もしくは軍組織に準ずる形態の超強固的規律によって支配される組織)」に入れてしまえばいいんですよね。不安神経症的な病は軍隊のような規律ががちがちのところでは逆に顕現しませんから。

 ひきこもりを「甘えではない」、「健全な人間による自己決定権の行使だ」として擁護していたkagami氏が、ひきこもりを「病」とし、それを「強制的に治す」という話を始めている。
 なんのことはない、引きこもりを「甘え病」だとして脅しつけ、鞭打ちたがっている(その衝動に打ち震えている)のはkagami氏自身ではないだろうか?


 重要なのは、このkagami氏の衝動が一見民主的な「自己決定論」に基づいている点だ。「ひきこもり当事者たちは、(本来はさほど苦しくもないのに――むしろ楽しんでいる――)自己決定によって閉じこもっているのだ」。もしそうだとすれば、福祉的支援など為すべきではないだろう。
 今は「ひきこもり」という言葉が流行してインフレ状態にあり、たとえば当「はてなダイアリー」内でも「ひきこもり」という言葉はたいてい「今日は家に閉じこもってました」というぐらいの冗談半分・自嘲半分の意味でしかない。このイメージをそのまま「ひきこもり論」に当てはめれば間違うのは当然だ。
 問題はあらためて、当事者たちが本当に「働けない」のか、それとも「働かない」のか、という点なのだが、基本的にはこの問題は、誰よりも当事者自身がいつも自分に対して突きつけている。(当事者の多くは、「働けない自分」なんてクズだと思っている。)


 ひきこもりが「自己決定(能動的選択)」の結果ではないとして、考えねばならないのは次のようなこと。

 どれだけ客観的条件の問題としてなんの障害もなくても、本人が実際に、主観的にそれができないのであれば、それは、客観的にも実際にできないのです。問題なのは、あなたには実際にはそれができるのだ、あるいはあなたがほっしていることをするためにはそれをしなくてはいけないのだ、と知的にではなく身体的、無意識的レベルで了解させることの非常な困難です。そのような困難を、「このんでやっている」というふうに自己を「主体」として描いてしまうと無視することになると考えます。(id:jouno氏、昨日のコメント欄

 少々分かりにくいが、jouno氏は、ひきこもりは「働かない」のではなく「働けない」という立場だろう。ただしその「働けない」の実情は、いわば「主観的なものが身体的に病んでいる」というべきもの(これはid:hikilink氏が言う「メンタルヘルス」の問題)。この「思い通りにならない主観」との折り合いをどうつけてゆくか、というところに工夫と努力の焦点がある(精神科に通うのもこの点においてだ)。


 id:sayuk氏の発言からは、個人事情としての「働けない」(主観的にせよ肉体的にせよ)だけではなく、社会的な「働けない」――働こうにも仕事がない、あるいはそもそも「仕事」の環境はこのままでいいのか――という問題意識を受け取った(少々強引だが)。ここでは「ひきこもり」は、問題を考えるための「入り口」だ。
 jouno氏は個人的で、sayuk氏は社会的だが、彼らはともに「トラブルにおいて何か考えるべき問題が現れている」と見なしている。僕はこれを「症候論的」態度と呼びたい。
 「症候(症状)」――自覚されない問題が、トラブル(肉体的・社会的)となって現れること。これは「誰かのせいにする」ためではなく、「その問題に取り組むために」ある概念だと思う。トラブルに満ちた自分の状況に取り組むことを通じて、いろんな問題につながってゆくこと。


 kagami氏の立場は、「ひきこもり状態の人間が増えてこれ以上社会的保護を要求するようになったら、福祉財政は破綻してしまう」という危機意識でもある。ひきこもりが仮に「意思的選択ではない、つまり≪働かない≫のではなく≪働けない≫」のだとしても、支援を求める人がものすごく増えてしまえば、福祉財政に無理が生じてくるのはたしかだ(実は現状ではほとんどの人が支援など求めないのだが)。『日本の国家システムは逆に「ひきこもり排除」の方向に進むと思いますよ。全体が確実に右傾化の傾向にありますし。個人は厳しい世界でサバイバルを強いられ、「資金」「友人(人脈)」の重要性が増大していくでしょう。』(kagami氏、昨日のコメント欄
 ひきこもり当事者が考えなければならないのは、こういう「既存社会の生き残りルール」みたいなものをわきまえた上で、あえて自分たち独自の生存ルートを作っていけるのかどうか、だ。自分たちの苦しみに正当性を主張しても、新しい道を作れないのなら、既存のルールに従ってサバイヴするしかない。そのルールに入れないなら、死ぬしかない。


 ここでは主にkagami氏の発言を素材に反論してみたが、ひきこもり当事者を弁護するような立場を取ったとて、それ自体は有効な打開策でも何でもない。「軍隊に放り込めば治る」「貧乏になれば治る」といった見解に反論するとして、しかし引きこもり当事者も資本主義社会のなかで生きていかねばならないのだ。うまくいかなければ、単なる無意味な死が待っているだけ。「働けない」は免罪符でも何でもない。(ある知人は精神的なトラブルでずっと精神科に通院していたが、職場では理解してもらえなかった。ところが、体をいためた時にはみんなすごく親切にしてくれたという。「精神的なトラブル」はこれほど受容されにくい。その意味では、鬱病などが「生物的疾患」と見なされることには――その因果論的真偽がどうあれ――社会的には意味があるのだと思う。「生物的に故障しているならしょうがないか」となるのだから。)
 引きこもりに関しては、「単なる擁護」は「単なる罵倒」と同じぐらいに空しい。先日の私は「他者の欲望につながること」云々と書いたのだが――それを本人たちが自分で探し始めるところにしか展望はないと思う――、それを具体的に探る道は想像以上にけわしい。罵倒されなくとも、ほとんどの引きこもりは単に放置されて苦しむがままなのだ。