ひきこもりは「自由」か?

 私たちが「現実」を生きることがもはや「生きる」ことを意味しない*1

 何を「あえてする」ことができるのかっていう「現実に選びうる、でも実際には選ばれなかった選択肢の束」=「ケイパビリティ」こそが、人間の尊厳の値を決める*2

 あらためて筆者が直面せざるをなくなっているのが、人間にとって自由とは何か、という大きく抽象的な、したがって時代とも技術とも無関係な問いである。そもそも「自由」とは何か。ひとはどのようなときに「自由」だと感じるのか。*3

 こうした引用と、10月26日の日記から、またいくつかの思考スケッチ。(僕は法律や哲学・社会思想史上の議論には暗いので、詳しい方、また教えてください。)

  • 一般には、他者からの要請を無視できる/感じなくてすむ/状況こそが「自由」だ。
    • 僕らの社会では、ふつう「お金がある」ことを意味する。憲法に規定された基本的人権のもと、休みたいときに休み、他者の提供する消費財を自由に我が物にできる状況。


  • 何を語りどう動こうとも資本の運動に取り込まれる現実(再属領化)を「不自由」と言うかどうか。
    • 各人が「自由に」動くことが、資本の論理に最初から繰り込まれている。



  • 「実際の私はある限定された1実現だが、実現されなかった選択肢は無数にある」?
    • これは虚妄だ。選択肢は「無数にある」わけではないし、実際に私にとって問題になり得る選択肢はごくわずかしかない。


  • 意識を持って生まれてしまっている以上、私は何かに向けて自分を集中させないと「自由」とは感じない。
    • ただしもちろん納得のいかない強制は「不自由」でしかない。 → 必然的不自由の獲得こそが「自由」だ。その対象への没頭が私にとっての内的必然であるような対象の獲得。
    • では何への集中/没頭が「自由」か?――フィクションやミッションへの集中が考えられる。




  • 私はずっと、「トラウマ」という言葉に強迫的に固着してきた。この単語が、現象の非人間性、すなわち努力や誠意をものともしない世界の残虐性や理不尽さを表すからだ。「トラウマ」は、「人間化できない世界」を端的に表す。
    • 私はそこから、「世界を人間的なものにしたい」と思った。そこで私の意識は、もっぱら操作的なもの、「世界を変えられるもの」に向かう。


  • ただし「共産主義革命」は、私には物足りない。
    • なぜなら、それは「世界の理不尽さ」を経済的不均衡に限定し、現象そのものの「非人間性」は問題にしないから。私はその一番ラディカルな「非人間性=理不尽さ」を変えないかぎり、「自由」にはなれないと思った。(→ 自由な状況を生み出そうとするのが自由?


  • 「フィクションへの没頭」は、消費財(文字や映像という素材)や自分の想像力を浪費しているだけ。こんなものは「現実の理不尽さ」に触れない。だから一種の牢獄でしかない。
    • オブジェクト・レベルのどんな人間的努力も、「現実そのもの」の理不尽さには指一本触れることができない。→ 私は現実が理不尽である理由そのもの、つまり「現実が現実であること」自体をなんとかしたい(変えたい)。


  • 「現実を現実でなくしたい」
    • バタイユの至高性やラカン現実界は「不可能」と表現されるが、これはすなわち人間の言葉・否定性によっては歯が立たない、太刀打ちできないということ。→ 私はここで、人間の言語・否定性のスペック自身を改変できないかという野心を持つに到る。
    • オブジェクト・レベルでの人間のスペックの改変が、「現実が現実であること」自体に影響を及ぼすことはできないか? つまり、否定性の存在論的地位を変えられないか?


  • 人間が自然を人工化する、というのは何をやっているのか。「プログラムの書き換え」?
    • しかし、たとえば物理学は自然の模像であり、それを通じて「自然が出来ること」を再演して見せるにすぎない(ex.原子爆弾)。理論は、言語にできる以上のことはできない。言語の「素材」に対応する「意味」の世界(バフチン)は大して新しい現象でもない。意味という人工現実の性能に期待しているということか。
    • 理論言語の駆使を通じての、操作可能性拡大への限りない夢。→ 「時間」と、「現実が現実であること」には、大きなつながりがあるように思える。アインシュタインの「四次元時空連続体」という概念と、「現実」という概念はどこまで重なり、どう違うのだろう。「タイムマシン」が実現すれば、「現実」は現実でなくなるのだろうか・・・。
    • いずれにせよ私にとっての「自由」は、理不尽で耐えられない現実への操作可能性にあるらしい。耐えられない現実をそのままに受け入れるのは、私にとって隷従を意味する。


  • ありのままの言語・否定性のスペックが「現実が現実であること」には何の影響力も行使できないのだとしたら、私は自らの否定性そのものに働きかけて――自己言及的にみずからのスペックをいじって――みずからの持つ操作性を高めなければならない。
    • しかし、オブジェクト・レベルにある否定性のスペックは、そもそもみずからのスペックをいじれるような性能を持っているか? そもそも、そのスペックの改変自体が、オブジェクト・レベル、すなわち「現実の中の一事象」というに過ぎないではないか。(ハイデガーの「存在論的差異」を思い出す。<存在者>は、<存在>に何もすることができない。私は本の中でこれを、「鮮度論的差異」と書いたのだけれど。つまり個々の個物は鮮度を落とす、しかし、「鮮度」という問題設定自体は鮮度を落とさない。)


  • 「現実を現実でなくしたい」という夢が妄想でしかないとしたら、私たちはみずからに与えられた言語(記号・否定性)の性能を、内在的に高めてゆくより他ない。
    • 現象への操作性を高めることが我々の自由だとしても、私たちは言語のスペックそのものをいじることはできない。言語に与えられた存在論的地位の枠内で戦うよりほかない。




  • ★僕は、自己言及という言語のスペックを通じて、言語そのもののスペックを変えようとしていたのだ、ということがわかった。
    • その変更にのみ本物の自由と熱狂を見出せる気がしている。それを放置せざるを得ないということは、私はどんなに長生きしようとも自分のスペックに不満を感じつつ熱狂できない時間をやり過ごすしかないということか。熱狂できないということ、私の存在が不活性なままに放置されるということは、それ自体「不自由」ということではないか。自由とは、独自の仕方で熱狂を生きられることではないか。


  • 言葉と否定性の現在のスペックを放置し、ただそれの備える性能をそのまま機能させてみるしかできない苛立ち。
    • わたしはニンゲンであることに苛立っている。動物になること、あるいは石になることを夢想した人たち。しかし、人間のスペックを持ちつつ犬や石の扱いを受けるのは、苦痛でしかない。


  • 「動物的」というのは、ふつう「家畜的」という全く自由のない状態を意味するが、いっぽうで、完全な自由(本能との一致ゆえの環境との幸福な共存)とともに、制限された自由(身体と本能に制限された環境にしか棲めない)をも意味する。
    • 人間は労働によって、環境の全てを自分のフィールドにできる、という自由をもつ*4。環境と自分を変える存在であるとともに、対象を支配しその自由を奪う存在。


  • 東浩紀氏の「動物的・人間的」は、状態記述であって、価値評価ではないと思う。では「人間的」と状態記述された人々がひきこもらざるを得ない、とはどういう状態か。――環境への操作的影響力をあきらめた状態か?(環境管理型権力?)
    • そもそも状態記述としての「動物的・人間的」は、情報への態度を示しているのだと思う。動物的情報処理(葛藤ナシ)と人間的情報処理(葛藤アリ)。 → 動物的な個人が「権力」に敵対する理由は何だろう・・・。


  • 動物的なあり方にとって、「洗脳される」は悪いことか。
    • どんな虚妄であっても、そこで「葛藤なく生きられる」のであるなら、それを「自由じゃない」と糾弾する理由があるか。(→ 洗脳に抵抗する「自由意志」とは何か。ロマン主義なしに「自由」を語り得るか。)





 ・・・・ということで、とりあえず僕は「自由」ということを「何かを変化させられる」ことだと考えて、人間の場合それは「否定性(労働)」の問題だから、その「否定性=変化と自由の酵母*5」のスペックを考えてみたかったのでした。でないと、与えられた否定性のスペックを使ってゴニョゴニョと誤魔化すだけに終わるから。(それはなんというか、怠慢だし、放置だし、「自由」じゃないと思った。可能性を徹底して試すのが「自由」だと思うから。)


 「ひきこもり」というのは、「何でも自由にできる」ように見えて、大抵は単なる不自由じゃないでしょうか。お金はないし、社会に働きかけることもできないし、恋人はできないし、周囲から罵倒されるし、自分に内面化された「世間」の声にいつも怯えていなくちゃならないし・・・・。しかし一方で、社会に生きるほとんどの人は、不自由な労働を強制され、疲れ果て、満足のいく成果を何も出せないままに一生を終える(それが僕の「労働と人生」へのイメージです)。――どちらへ転んでも、お先真っ暗・・・・。
 「ひきこもり」は、自由のチャンスかもしれない。でも、たいていは自由の機能不全にすぎない。じゃあ、そこからどうするか・・・・。


 昨日、NHKでやっていた引きこもりについてのTV(ヤイコの出てたやつ)をチラと観たのですが、あらためて思ったのは、私にとっては議論というのはあくまで「行動する」ためにあるのであって、それ以外ではないのだなぁ、ということ。次の行動の導火線として議論があるのであって・・・・。私にとっては「自由について考える」のも、そこで導き出された考えが、次の行動をモチベートしてくれるからです。というか、少なくともそれを目指します・・・・でないと、考えてもしょうがないし・・・・「知的お遊戯」に終わるし・・・・(知的お遊戯に終わる、というのは、ひきこもりにとっては致命的じゃないでしょうか)。
 いや、議論を作ること自体が、行動だし、それ自体として苦痛軽減に役立ったりするわけですが。自分の議論の効果や結果については、最終的には分からない。「やってみなければ分からない」――というわけで、「やってみている」わけです。



*1:宮台真司映画『千年女優』について

*2:宮台真司ノーベル経済学者アマルティア・センの概念「ケイパビリティ capability」について

*3:東浩紀「『情報自由論』連載を終えて」

*4:マルクス『経済学・哲学草稿』

*5:マルクスが「生きた労働」について語った『経済学批判要綱』の一節を思い出す。「労働は、創造する生きた火である」