当事者概念をめぐる議論それ自体の、紛争性の高さ

磯野真穂「声と沈黙」を読みました。

私が貴戸理恵氏と東京シューレの事案を扱って、もう15年以上が経ってしまいました。これはまさしく、【当事者/アカデミズム/運動体】の問題だったわけです。

斎藤環氏が私の創発的な、あるいは中動態的な問題提起に対して理不尽な暴力的態度をとったのも、まさしくこの「当事者」問題だったはずです。これも12年が過ぎてしまった。

テーマとして凄まじく切実なのに、紛争性が高すぎてなかなか触れない状況というか。

磯野氏の論考では、当事者として名乗り出た者が「あいつは本当の当事者ではない」と言われる問題も扱われてますが*1――ここにあるような論点って、もう20年前からさんざんくり返しているのに、ちっとも進展がないですね。

このあたり、トラウマ論と似ています。

心的外傷はものすごく大事なテーマでありながら、ひとしきり議論されるとあまりに紛争性が高いゆえに見るも汚らわしい論題と化してしまい、その議論の経緯が集団的に忘却されるまでは誰も話題にしなくなる。そして、その次も前回と同じような顛末に終始する。中身がほとんど進展しないまま、同じような経緯を何十年かの周期で繰り返す。*2

当事者概念をめぐる緊張関係それ自体が極めてトラウマ的であり、だから話題としてさっぱり進展しない――そういう点も考慮すべきかもしれない。



*1:ひきこもり問題の界隈では「偽ヒキ」というスラングで20年近く前から言われた話です。

*2:「心的外傷の研究の歴史は奇妙である。ときどき健忘症にかかって忘れられてしまう時期がある。活発に研究が行われる時期と忘却期とが交替して今日に至っているのである。19世紀においては同じような形の研究がとりあげられては唐突に捨てられ、だいぶんたってから、再発見されるということが何度も行われている。50年前どころか100年前の古典的文献が昨日の業績のように読めてしまうことがしばしばである。この分野はほんとうはゆたかな伝統にめぐまれているのだが、この伝統は周期的に忘れられてはまた再発見されてきた。」(『心的外傷と回復』第1章冒頭)