切断と再構成の手続きとしての裁判

 スペインでニートを意味する“ni-ni(ニニ)”とされるこの男性(25歳)は、両親からお金を渡されなくなったとして、家庭裁判所に毎月400ユーロ(約4万8,000円)の支払いを求める裁判を起こしたという。  (略)
 そしてマラガの家庭裁判所は、先日この訴えに対して判決を下した。その結果は、男性が「充分に働く能力がある」と認定し、「30日以内の実家退去」を命令する、男性にとっては思いもかけない厳しい判決。  (略)
 ただ、今回の判決には男性を援助する内容の命令も含まれており、両親には「彼の自立を助けるため」として向こう2年間、毎月200ユーロ(2万4,000円)支払うよう求められた。また、男性が購入した車の代金についても、月々の返済を両親が肩代わりするという。



この記事に対し、ネット上では「訴えを起こす元気があるなら、さっさと働け」という意見がたくさん出ているが*1、私がむしろ注目したのは、これならば家族が「ni-ni(ニニ)」を訴える裁判も可能ではないか、ということ。 参照1】【参照2

膠着状態の家族に《裁判》を導入し得るなら、環境に新しい展開を作るツールとして期待できる。今回の案件では具体的なアドバイスを判決が出しているが、それはカウンセラーのアドバイスとは位置づけが違うはず。

たとえば判決文の策定に、地域の事業者やソーシャルワーカーが参画できないだろうか。いわば、ソーシャルワークの一環としての裁判であるという位置づけで。

 2010年のスペインの完全失業率は20%を記録。 (略) この男性のような若者世代になるとさらに数字は上がり「43%」にもなるという。

うまく行っていない個人だけを取り上げて、
「単なる見殺し」と「単なる保護」の両極しか設定できないのは貧しすぎる。



*1:まったくの正論だが、その意見自体が思いつきのウサ晴らし(いわば「形而上学者の愚痴」)であり、対面で口にする処方箋としては役に立ちにくい。メタなだけの正しさは、関係や主観性の具体を悪化させる。 世論の大勢を受けての放置がどういう影響を持つかには、また別の検証が要るはず。見殺しにする「つもり」がなくても、今後はなし崩しが予想される。分かりやすい解決はない。