当事者論を組み変えるために 1

(5/6)別補遺 拒絶される当事者性のつづき】


私が目指しているのは、広い意味での当事者論の組み直しです。

既存の《当事者》という言葉の文脈には、不当な居直りや暴力を蔓延させる傾向があります。 かといって、単なる三人称や一般性(参照)に居直ることもできない。 そこで秩序化のありかたを変えるために、参照できる議論を探しています。

今回 酒井さんにお返事しようとすることでいくつか整理が進んだのですが、逆にそれは、参照できる議論がほとんど見当たらない*1という焦りを思い出すことでもありました。

《本人が語る》というモチーフは、ドゥルーズ/ガタリフーコーの時点でいちど焦点になっていると思うのですが(参照)、日本で彼らの「専門家」が、ご自分では《当事者発言》をしていないように見えることからも、議論の前提を考え直す必要があります。(つまり私は、「かわいそうな弱者が語る」のとは違う意味で《当事者発言》を考えようとしています。)


以下、書いてくださったことにできるだけ即して、記してみます。(最初に予定していた「被差別ポジションからいかに語るか」第6回目を破棄して、新たに5回分を書きました。どうしてもお返事をお願いするものではありませんが、もし頂ける場合は、その新しい5回目の掲載以後にお願い致します>酒井さん)



*1:最近知って参考になった論文:「人間科学における主観的言説の重要性」(PDF、杉万俊夫)