譲歩できない点

ドゥルーズ/ガタリが、自分の足元を分析する consistency*1の過剰性ぬきに持ちだされるなら、参照価値はない。 外国の知識人をスターとして祭り上げて自分たちの正当性を確認し合うだけなら、これまでの30年間と変わらない*2

アンチ・オイディプスの使用マニュアル』でナドーの語る「漏出」は、やむにやまれぬ分析過程のことでなければ、美的耽溺や左翼的アリバイ誇示になってしまう。 分析の consistency が過剰性となること、それがドゥルーズ/ガタリの言う 《逃走線=漏出 lignes de fuite》 ではないのか?

中仕切り的分節こそが漏出であるという話でなければ、三島由紀夫切腹も「漏出である」という話になる*3「特異化」は内発的な分節プロセスの過剰性としてのみ実現するのであって、パターンの「民族的多様性」を肯定するだけなら、他者尊重のイデオロギーに居直る左翼や右翼でしかない。

尊重されるべきは、やむにやまれぬ分節過程だ。 党派性は、自分たちに都合のよいイデオロギーで分析のディテール(過剰性)を封殺してしまう。 「他者尊重」のイデオロギーを口にしつつ、身近にいる人の分析の他者性を押しつぶす。 日常そのものから湧いて出る分析の他者性こそがフロイト的に《不気味》だから。



*1:一貫性。 それ自身の内的必然に基いて、外的バイアスを突き抜けてまで「分節してしまう」一貫性。 私にとって欲望とは、この当事者的な《分節=素材化》のこと。

*2:ステファヌ・ナドーは「老人のノスタルジーが若者を利用する」と論じるが(参照)、ふつうに考えればドゥルーズ/ガタリを語ること自体が「おっさんのノスタルジー」でしかない。 そうではないとしたら、何なのか。

*3:自決の二週間前、「最も親近感を持ってる西洋の思想家はジョルジュ・バタイユ」、「《美/エロティシズム/死》が一本の線をなしてる」と熱く語った三島由紀夫には、「分析過程こそが漏出である」という趣旨は見られない。――とはいえ20代の私は、三島の小説ではなく彼の虚無感に魅惑されていた。 『三島由紀夫 最後の言葉 [新潮CD] (新潮CD 講演)』参照。