自分の当事者性を拒否する「正義の味方」たち

上杉隆小沢問題で検察リークに踊らされるメディアへの危惧 より:

 スタジオを出た筆者の元に検察庁担当の社会部記者から電話が入った。

  • 「お前まずいぞ、(検察側の)実名を出しただろう。『調子に乗りやがって』と、検察は怒っていたぞ。心配して言ってんだ。本当に、気をつけた方がいいぞ」

 彼の話によると、本気でやろうと思えば、痴漢だろうが、交通違反だろうが、あらゆる手段を使ってでも、狙われたら最後、捕ってくるというのだ。たとえば道を歩いていて、他人の敷地に間違えて足を踏み入れただけで不法侵入の疑いで持っていかれるかもしれないということだった。

検事は公務員なのに、実名を出してはいけないのか。
これでは、対人支援ですべて隠蔽されるのも当たり前ではないか。 個人で正義感を出しても、自分だけが潰される。 集団的な政治体質の問題だから。
問題を社会的に処理しようとするときの、政治の体質が根本から狂っている。 それが中央政界や検察だけでなく、日常生活のすみずみまで行き渡っている。 それを放置して「社会参加しましょう」と言ったって、狂った体質に迎合させられるだけだ。(迎合できなかった人間は、徹底的にいじめ抜かれて排除される。)


江川昭子新聞の「説明責任」を問う より:

 朝日新聞は、検察の会見の主な一問一答を紹介。 「言えない」「言わない」「コメントしない」「お答えを控えたい」……と記者の質問に対する検察官がほとんどまともに応えない様子を伝え、<検察はどこまで説明責任を果たすべきなのか>と、実に遠慮がちに問うている。
 そうした問いをすることはいいだろう。
 だが、私としては、ついこんな問いを発したくなってしまう。
 「ところで、ご自分たちの説明責任はどうなっているのですか」

むしろ《体験の素材化》をこそ、社会の根源的スタンスにすべき。
私は、「怠惰でよい」ではなくて、別のスタイルの勤勉さ、つまり《当事者性の引き受け》を求めている*1
・・・これは結局、自分と周囲に対する、権力の揮い方を変えることだから、それ自体がある種の革命論といえる。(その条件や手続きが問題。たとえばベーシックインカムが、社会性のあり方を変える条件と言えるかどうか。)



*1:私はそれで10年やってみた。 ようやく気付いたのは、私が受容されたのは、「利用される当事者」という枠組みでしかなかったということだ(だから「賞味期限がある」と言われる)。 私が呼びかけたのは、「私と同様に、あなたも足元の分析をやってくださいよ」だったのだが、これが徹底的に拒絶される。 この社会の成員は、「利用できる誰か」を探してはいても、自分の足元を考え直そうとはしない。