当事者性は、「再検証=素材化」にある

電車に乗るのが平気な人にとっては、「電車に乗れない」のは甘えになる(参照*1
「成人男性のくせに猥談が耐えられない」のは、男社会では甘えや未成熟と見なされる*2


一般の人は、当事者発言を「しない」ことで生き延びる。 嘘をついて、「自分はちゃんとやっている」というアリバイを確保したことにする。 当事者性は、「弱者であること」ではなく、「検証すること」にある*3。 「当事者発言」の本当の危険は、ここにある。 ▼「弱者支援」という大義でアリバイを確保する左翼・リベラリストと、そのイデオロギーで居場所を確保した “当事者” たちは、自分の当事者性を話題にされることを極端に怖がる*4。 確保した正当性に、傷が入るかもしれないからだ。(私は彼らから、執拗に攻撃される。じつは「再検証=当事者化」の運動こそが、“当事者”サイドからの最も激しい抵抗に遭う。)


自分は、うまくできていないかもしれない。 それを「検証する」ことは、単に「自己否定する」ことではない。 静止画像としての自分を否定し続けることは、むしろ否定する自分を絶対的に肯定し続けることだ。 だから自己否定的なナルシシズムは、じつは非常に傲慢だ。 自分を否定する構造を無批判に固定している。
支援者とは、「自分を当事者にする者」=「自分を検証する作業に身をさらす者」のことであり、自己検証を拒否しているなら、関係において傍観者にとどまる。 「ひきこもりの経験者」であっても、自己検証を拒否するなら私は関係は維持できない。

 目の前で嫌がらせがあった。 しかし「あった」と言うと、止めに入らなかった自分の責任を追及されるし、嫌がらせを受けていたのは政敵だ。 「何も起きなかった」と言うことで、自分の責任は回避できるし、相手をつぶすこともできる。

これが “正常な” 社会人の処世術だ。 ひきこもり支援者の、被支援者に対する態度も例外ではない。 支援される側同士においても同じ。 「社会的な正当化」は、関係者における政治的選択だ。



*1:石川良子『ひきこもりの〈ゴール〉―「就労」でもなく「対人関係」でもなく (青弓社ライブラリー (49))』(p.36-7)が、この個所を取り上げてくださっている。

*2:私への嫌がらせを続けた男は、そこにつけ込んだ。 猥談なら、「常識の許容範囲内」で、一般には信じられないほど強いダメージを私に与えられる。 後で追及されても、「嫌がらせなんてしていません」と言い張れる。 ▼露骨な男根社会に適応する男たちは、性的弱者の傷を、さらに自意識で痛めつけようとする。

*3:「当事者」という語をめぐる拙ブログのかつての言葉づかいに、今の私はいたたまれない。

*4:性的弱者である私に、恥ずかしくてたまらない「当事者発言」を要求する自称「支援者」は、自分の性的いきさつを語らない。 セクシュアリティについては、当事者でない人間などいないだろうに。 そして、健全に性愛生活を送れている男が(自慢とは別のしかたで)性愛関係を分析するところに、「いま営まれている関係」への分析があるだろうに。――男たちは、人数自慢やモテ自慢はしても、「どうやって傷つけたか」は語らない。 傷つけた理由になった自分を改善することもない(有名知識人まで含めて)。 検証の必要ではなく、「自分は結果的に正しい立場に立っている」ことばかり話したがる。――要するに、「男の子の自慢話」なのだ。