政治的・法的にばかりでなく、臨床的な趣旨をもった《当事者化-論》 and back (メモ)

当事者論を標榜しながら私を非難してきた人たちと私との決定的違いは、「自分自身を対象化した当事者論になっているかどうか」だ。

相手を非難するのに自分を100%の正義に置ける幼児性に私は激怒している*1。 論じている自分を、相手との関係に置いて対象化していない。 「論じる側」=「見る側」が100%正義だという暴力。 論じているお前はどこにいるんだ。

生身の個人は、神ではない。 自分は常に間違いながら生きている。 何がどう間違っているかを100%決定できる地点を私は認めない(それが無神論だ)。 自分は弱者だから100%正しいとか、弱者の権利を代表しているから100%正しいとか言える馬鹿は、論じている自分が神だと考えている。 その絶対化=信仰を押しつける傲慢の暴力*2

私は代わりに、場所としての自分を分節する作業を、そのプロセスにおいて絶対化している。 つねに新しく、ゼロから組み直される再検証。 客観的・無時間的なポジション固定ではなく、動きの中にある分析。 お前はそこですべてを対象化してよい、ただしそれは時間の中にしかない、つねに自分がさらに対象化される側に回る。――この法廷は、強制力がないと維持されない。 公正な検証は、100%の純度に居直ろうとする者をも引きずり出すため、彼らはこの検証機会を何が何でも拒否する*3

私はこの、「労働過程として生きられる分節」にこそ、「過程としての宗教的機能」*4を見ている。 労働過程内に維持される、自分を他者化する法廷。 「客観的な場所」ではない、時間の中にある、対象化され続ける法廷*5。 見ているあなたは、傍聴席にではなく、同じく対象化の権限を持ってそこにいる。 ただし時間の中で、あなた自身が対象化され続ける。



関連メモ

    • 「馬鹿にどう対処するのか」というのは、中間集団において本物の課題だ。 また、自分自身のバカである度合いをどうやって縮減するのか。 分析が集団で強化されるというより、集団で愚かな自己満足に浸ることのほうが多い。 今この場を徹底的に先鋭化させる方法は。
    • プロセスであることと実体であること。 プロセスを守ることは、実体化された権利を守ることと作業がちがう。 実体化されていれば形式的に「守る」そぶりをしていればいいが、過程を守るためには、場所を確保したうえでやってみせなければならない(実現する過程としてしか、守ることができない)。 このような固執は、実体を守る形骸化したそぶりとは敵対すらする。 なぜなら、公正な検証にかけるのだから。 弱者だからといって検証を免れることはない。 しかしその作業は、開廷に似る(opening a court as a process)。 紛争処理には、手続き(procedure)の整備が要るはずだ。
    • 私への迫害は、ひきこもり問題を構成する本人や共同体の体質を研究するチャンスとなっている。 権威主義、傍観主義、固定された役割理論。 支援者も被支援者も同じ病いにかかっている。 本当に研究しなければならないのは、《攻撃と黙殺の構成のされ方》だ。 それを具体的に組み替えなければ。 問題構成の体質改善。




当事者化「されない」権利、「される」方法

ひきこもりは、「当事者化されない権利」として語られがちだ。 世界のどこに何が起こっていようとも、目の前の誰がどうであろうとも、「知らん顔」できる権利がないと、私たちの日常から自由が奪われる。 法を犯さないかぎり「ひきこもる権利」が認められないと、私たちは恒常的に社会に駆り出されてしまう。――しかし一方で、参加のモードが限られすぎている。 本当に許し難いメカニズムに着手する手続きがない。
ひきこもりに取り組むために必要なプロセスは、社会順応を気取る連中のナルシシズムによってことごとく潰される。 ナルシシズムへの着手こそが共有されねばならないのだが、確保されたナルシシズムは人を道具化し、フェティシズムに閉じこもる。
当事者化をめぐる政治的症候としての引きこもり、という言い方はできないか。



*1:「自分は弱者だからお前は100%責任をとれ」、「俺は正義だからお前は100%悪い」。 硬直したディシプリンが、「100%の正義」を僭称する。 その僭称こそが(臨床的にも)悪だというのに。 ▼地べたを這いつくばる着手と分析は、差別的に見くだされすらする。 “合法的に” 確保されたアリバイの暴力に、どうやって対抗するのか。 あるいは追及のために、膨大な金と時間がかかってしまう。

*2:「自己が検証されることを拒否する議論」には、私は《入門》できない。 100%の正義には、主体の場所が、着手のチャンスがない。

*3:「100%の正義」が、言説において強制力を仮構する。 分析プロセスへの没頭より、アリバイの仮構が優先されている

*4:宗教的機能とは、この場では《現象経験との和解》だ。 「過剰性の処理」という定義は、私ならばそう理解する。 現象経験は、いくらなんでもひどすぎる。

*5:この法廷は、分析の労働過程として開廷される。 開廷プロセス自身が時間化されていて、次の瞬間には法廷側が「裁かれる側」になる。 ポジションを固定された「絶対的法廷」はない。 どこかよその場所に “客観的に” 開廷されるのではない。