「命綱」という秀逸な比喩

当事者化論のブックマークより。 コメントをくださったAFCPさん*1は、児童精神科医とのこと。

AFCP: 言いたいことはなんとなくわかる気がするけど、こんなめんどくさい人のいる領域を支援にいこうとは思わないなあ。 「オレ(達)を助けにくるなら命綱なんてつけずに来い」ということですよねえ。

一方的に「支援される」のではなくて、支援する側の労働環境改善にも関わることだと思います。 支援する側が一方的に負担するという発想も考え直すことなので。 そしてそれが、内在的に臨床的な配慮にもなっているはずだ、と。
支援される側が社会に参加していくときに、「すべて自分が負担する」と「ぜんぶ相手に任せきり」の両極端*2ではなくて、順応をめぐる関係事情まで周囲と相談しながら、合流していくこと。 そこで相談しながら、分析しながら合流しようとするときに、支援者側が固定された役割に居直ってしまうと、逆効果だと思うのです。(支援される側が役割に居直っても同じです。) 役割というのは、機能的必要から設定されたものでしかないのですから。

それにしても、「命綱」という比喩が、制度順応を考える表現として秀逸です。 制度順応で生き延びた方の多くは、「手を離したら終わり」と思ってらっしゃるのですね。 私は、「無理やり外部から綱を突きつけられても、アレルギー反応が出てしまう」「綱の維持が自己目的化するのは無意味すぎて無理」という状態で*3、臨床的趣旨から、「自分で綱を作る作業」を考えている。 もちろん既存の制度(命綱)は無視できないし、孤立していては絶対に無理です。 《制度》である以上、一人だけの問題ではないし、《入門》が問題になっている。 またそれは、すでに生きてしまっている無意識的な枠組みでもある。――その《制度》を、固定された何かではなくて、お互いの関係を通じて取り組む場所にしていきましょう、というような。 本当に必要なのは思想家がどうこうではなくて、《順応すること》そのものをめぐる考察です。
私としては、順応の臨床を考えるためにどうしても必要なことで、《制度》という概念についてやや人文的な考察をしているのも、そのためです(参照)。 この取り組みは、ひとまず私自身に対して、はっきりと臨床的な効果を見せつつあります。



*1:ありがとうございます

*2:役割固定と、お互いに相手を利用するフェティシズム

*3:中学時代の不登校以来、「順応フォビア」のような状態が続きました