ひきこもり臨床論としての美術批評

ueyamakzk2009-01-03

斎藤環アーティストは境界線上で踊る』(みすず書房)刊行記念のトークショー

 斎藤環×岡崎乾二郎アートに“身体”は必要か

を熟読した(掲載は『みすず(no.563)』2008年8月号)。
これを私は、美術批評であると同時に、ひきこもり臨床論として読んだ。 岡崎乾二郎の議論は、斎藤環の「発想のあり方」へのあからさまな批判なのだが、斎藤は最後までそれに気づいていないように見える。
私はこの対談を、ひきこもりや就労支援の関係者にこそ読んでほしい。 誰かの努力や存在が社会的に排除され、誰かがぬくぬくと「内側」にいることになっている*1。 そこに批評を口にするときの態度の違いは、そのまま支援案のちがいになる。 排除された努力や存在を受け止めるときに(あるいは無視するときに)、どんな発想が必要なのか。
作品であり、労働過程である私たちは、単に全面受容されるべきではない。 では、どんな厳しさが必要か*2

論点*3は大きく二つ。

    • 【インサイダーとアウトサイダー
      • インとアウトの境界線は誰が引くのか。 その線を引けない岡崎、引けてしまう斎藤。
    • 【「生産を通じての去勢」か、「市場に去勢される」のか】
      • 作るプロセスに内側から付きあう岡崎、 結果物だけを見て裁断する斎藤


岡崎: この人たち*4が言ったのは、こうした表現を、アウトサイダーという単純な制度から外れた個に還元するのではなくて、一見、インサイダーから見ると、きわめて例外的な表現に見えるものこそが、むしろ通常、表面で自覚されているカルチャー、ヘゲモニー文化を支えている、ということです。こうした抑圧され隠された、無数の文化の層を見るという方法論だったわけですね。これこそが文化を作っている形式的な基盤、無意識的な層なのだと。 (略) 制度的な閉塞によって批評言語が機能しなくなったとき、脱政治化されてしまうときに精神医学の知というものに文化論が頼るときがある。 (略)
 たとえばダーガー*5についても、僕から見ると、まさにウィリアム・ブレイクの世界ときわめて近い。多分に影響も受けているのでしょう。しかしブレイクこそ、そもそもコリン・ウィルソンなんかの定義によればアウトサイダーのモデルそのものだった。完全な独学です。柳宗悦の出発点はブレイク研究であった。なぜブレイクも含めて、こうした流れを語らずに、ダーガーっていう個の例外性に還元するのでしょうか。アウトサイダーとして語られてしまってきたものにこそ、芸術の正統な系譜を読み取る、地下水脈のような継承性を読み取るのであれば批評になるわけです。グリムや柳田の仕事――アノニマスな形式こそがもつ強度への注目に目をつぶり、個に還元して語ってしまうというのは、批評的責任を放棄しているといわざるをえない。(p.16)

斎藤: 私がアウトサイダーをイメージするときによく引用するのは、(略) 加藤泉さんというアーティストの言葉なんですね。加藤さんはもともとアウトサイダーが非常に好きだった。好きだったんだけど、途中からだんだんと、やっぱりちょっと違うという感想をもったというんですね。それを聞いてみましたら、アウトサイダーというのは、作品と自分の関係がずっと変わらないというんです。インサイダーというのは、作品と自分の関係がどんどん、描けば描くほど変わっていくと。これはなるほどと思いました。 (略) アウトサイダーじゃない人を簡潔に言うとしたら、それは表現者を演じる意識があるかどうかということだろうと書きました。(pp.18-9)

岡崎: 僕の考えをくり返せば、アウトサイダーとインサイダーというのは、まあ分けられないと。そういう区分の仕方、二分法を設定しうるポジションには立てない、立たないという考え方なんですね。文化の制度的な安定性を認めない。 (略)
 インサイダー、アウトサイダーという枠を拡張して言うと、昔から、文化と自然を区分する枠がありますよね。たとえば、蜂が素晴らしい巣をつくる。 (略) いま斎藤さんがアウトサイダーの制作態度および作品の特徴として述べられたことは、そのまま人間が自然の生産物について言ってきた特徴にも当てはまる。ところが、一方で芸術家が工業製品を見るとき普通の生産物であれば、これはある種の報酬を目的にして機能を追求してやっているわけだから、生産者と作品との関係は変わらない。つまり品質は安定しているし管理されている。(略)
 そこで、こう考えられる。インサイダーに位置づけられた生産物より、むしろダーガーの作品なんかのほうがよっぽど毎日、変化しているわけです。スタイルを勝手に変えるな、なんて、ときに市場に強制されていたりする画家なんかより、社会的位置づけを変更することがはるかに自由ですから。(略)
 たとえば人間にとって、蜂は人間の利用できるもの、蜂蜜ほかの資源を供給するものでしかない。つまり人間と蜂の関係が人間の文化システムによって固定されている。人間は生産管理するために蜂の巣に四角い箱をかぶせることまでする。人間文化のなかに位置づけられる蜂の役割はそこではズレない。搾取しているということです。 (略)
 文化と自然の区分を考えると、究極のアウトサイダーは、(略)この自然そのもののようなものだと。自然の生産物を人間は自分に都合のいいように利用搾取するだけですが、芸術は、蜂の生態すべて、共感不可能であるはずのもの、すべてを模写しようとする。 そのとき芸術は、文化と自然のどちらにも位置づけられない、インでもアウトでもないものにはじめてなる。了解不能な細部から隠れた連関が、突出して現われてくることもある。利用できる結果物だけ搾取する、美しい効果だけを真似するならば、いつも同じ効果しかもたらさないのは当然です。しかし見えない生産過程のほうを模写しようとすると、ぜんぜん見え方や理解は変わってくる。精神分析の本領というか、精神分析が面白いとすれば後者のほうだと断然、僕は思っているんだけれど。(pp.19-21)

岡崎: ところで、僕から読者代表として、斎藤さんに質問してもいいですか。(略) この本に集められた23人のアーティストの営為は、同じひとつの現代美術というジャンルの仕事に入れられるというふうに斎藤さんが考えておられるのかどうか。いいかえれば現代美術というジャンルを斎藤さんがどのように定義し、あるいは他の表現ジャンルとの関係で位置づけられているのか。つまり斎藤さんはいかに境界線を引いているのか、 (略)
 境界線というのは、たんなる抽象的なものではなく、さまざまな社会的な利害、関心、関係が絡み合った、きわめて具体的な葛藤、闘争の場であるはずですね。境界である以上は、そういう場は相変わらずある。インとアウトを分けるというのは恐ろしいことです。(略)
 この23人が同じジャンルに位置づけられうる、自明に扱われる場というのは、もうすでにあるわけでしょう。(略) それに対する斎藤さんの判断というのは、受動的すぎるのではないかというのが椹木さんの言ったことだと思うんですよ。むしろ、このなかにそれぞれ通約の難しい無数の相異なる言語がある、そしてそれぞれの言語がそれぞれ異なる正当性を語りうるのだと言うほうが、みんな解放されると思うんですよ。 (略)
斎藤: わかりました、端的に言います。 私が買いたいと思うアーティストです(笑)。 私はこの日本の美術界という「悪い場所」を、閉じた円環を開放するロジックは、マーケットの論理しかないと思っていますので。(pp.34-5)


  • 斎藤は「私自身がずっとアウトサイダー的な意識」というのだが(p.17)、これは謙遜のようで実はきわめて傲慢。 内と外を分ける枠を温存したまま、「自分もアウトサイダーと同じ」と言う。 こんなことをすぐに言えるのは内側にいると思っているから*6。 本当に外側に排除される側としては、「内なのか外なのか」という境界線の策定にこそ紛争の焦点がある。 岡崎はその話をしているのに(p.34)、斎藤はまったく気付いていない。
  • 岡崎の議論は、「生産過程への介入において、介入する側もされる側も去勢される」と言っている。 介入する側の生産過程もプロセスとして問題化され、内と外は簡単にいうことができない、いわば境界線上での分節の踏ん張り*7を実演している(その分節をした岡崎の言葉は、内側にとどまれるとは限らない*8)。 ところが斎藤は観客席で作品を待ち受け、市場側から作家を冷笑*9してしまう。 これは引きこもり支援論そのもの。
  • 岡崎は斎藤に向かって、「あなたは、アウトサイダー扱いした作家を搾取している」と言ってしまっている。 これは精神科医としての斎藤に、「患者を役割固定して搾取するな」というのと同じモチーフ。 ここでの岡崎は、私が雑誌『ビッグイシュー』でおこなった斎藤批判(参照)と同じ話をしている。 【「人間は生産管理するために蜂の巣に四角い箱をかぶせることまでする」という岡崎の指摘は、精神病院を思わせる*10。】




主体と客体の制度的構成(岡崎の「批評=臨床」)*11

岡崎: ピカソにとって、ギターというのはたんなる視覚像ではない。盲目のギタリストが捉えるギター像とわれわれのギター像は変わることはないように、複数の感覚の集まりとして構成されるギターを表現していたのですから。美術にとってみれば、これは重要な問題なんですよ。像が本物か贋物か、即物的に対象としてあるかないか、ということよりも、これがじつは構成されていたという事実のほうがリアルなわけです、僕には。 (略) 私がこれを見ているという場面では、私の主観と客体がセットになって視覚は成立している。先に主観だけがあると思ってしまうのは、まず大きな間違いですよね。客体だけが主観なしに成立するというのも、大きな間違いです。 (略)
 ブルネレスキがややこしい仕組み*12でやったことっていうのは、私が画面を見ているのでもなく、見る人間がいなくて画面だけがあるのでもなく、それから、ある実際の建築物があるのでもなくて、あるリアルさというものが、本物があって贋物の虚像があるのではなくて、虚像をつくるのと同時に本物が作られる、像を見るのと同時に主体も作られるという論理的な場を形成する装置をつくろうとしたわけです。(p.33)

プロセスとしての再帰性を考えるために。



【追記】: 「当事者は境界線上で分節する」

“当事者” とは、内側か外側のどちらかにいるのではなくて、問題化される過程そのもの。 当事者発言とは、自分を含んだ事情を素材化し、境界線上で分節の労苦を引き受けること。
役割を固定して誰かを一方的に内側か外側に固定することは、自分と相手から当事者のチャンスを奪っている。 ありていにいえば、ルーチン化した差別だ(ダメな左翼はそれしかできない)。
弱い立場にも、強い立場にも、《境界線上で分節する》仕事がほとんど見られない。 弱い側は、自分の状況を話題にせざるを得ないのだが、往々にしてそれは単なる「特別扱い」でしかない。 結果としての特別扱いではなく、プロセスとしての分節(そのリアルタイムの継続)こそが、状況の関係者に必要なのだが…。
私はそれを法学的・政治学的に論じようとして、いまだうまくいっていない(参照)。



【追記2】:

自分の存在を「排除されている」とする言表は、それ自体として「内側」にある*13。 だから、斎藤的なコスプレ or キャラクター的な発想に合致してしまう。
本当に排除される危うさを生きているのは、境界線上で分節する過程であり、その生産物だ。 それは、内と外の両サイドから「存在しなかった」かのように扱われる。
この私のエントリーは、最初の段階ではまだそこを記せていない。



*1:ひきこもっている人が「内側」と考えれば、働きに出ている人たちは社会に向けて排除されている

*2:以下、引用部分での強調はすべて引用者

*3:岡崎乾二郎の観方にたてば、「自分が固定されていて、問題を論じる」のではなく、「論じている自分が論点の身体であり、論じながら換骨奪胎される」ような話であるはず(だから臨床性がある)。 岡崎はこの対談で精神分析的な去勢論をしていないが、これは岡崎流の去勢論であり、その実演にあたる。 この点で私は岡崎側に立つ(参照:「論点ひきこもり」)。 ▼アートに身体が必要なのは、身体が「論点=境界」だからだ。 斎藤の身体は、境界性を拒否している。――ひきこもり臨床論は、「引き出し屋か、全面受容派か」ではなく(参照)、「境界線で踏ん張るか、簡単に内外を分けてしまうか」で区分けしなければならない。 斎藤を批判する東京シューレ系も、イデオロギーで簡単に「内部」を設定してしまう。 私は、その安易な内外設定にこそ抗っている。

*4:ドゥルーズ柳田國男今和次郎(こん・わじろう)バタイユ坂口安吾など

*5:斎藤環は、ヘンリー・ダーガーを「アウトサイダー・アート」の一例としてたいへん積極的に紹介し、激賞している。 参照:『戦闘美少女の精神分析 (ちくま文庫)

*6:これは斎藤が「自分もひきこもり的」と言うのと同じ。 医師として確固たる「内側」におり、その立場を考え直す気がないからこそ、「自分もアウトサイダー」と言える。 ▼【追記】:「ひきこもり」だった僕から』というタイトルを受け入れたことで、私はこの差別的な役割ルーチンを引き受けてしまった。 「私はアウトサイダーだ」と端的に言うとき、私の言葉は「内側に」いる。そこで私の労働過程は、「内容」に身売りしている。

*7:この言い方には、『生きていることの科学 生命・意識のマテリアル (講談社現代新書)』での郡司ペギオ-幸夫や、合田正人の「線上」論(参照)が響く。 逆にいうと、私は郡司や合田の議論をも、ひきこもり臨床論として読んでいる。

*8:この対談でも、これだけあからさまな批判をしておきながら、あくまで笑顔のやりとりを続ける苦しさを感じる。

*9:「恫喝」と書いていたのですが、「冷笑」に書き替えました。脅すというよりも、確保されたポジションとスタイルに居直ることなので。

*10:岡崎自身はそこまで意識して言っていないだろうけれど。

*11:ここで私が岡崎の議論を「批評=臨床」と呼ぶのは、三脇康生らの仕事(制度を使った精神療法)がそうであるのと正確に同じ意味を込めている。作品がつくられるプロセスに付き合う、それ自体が内在的に作品分節のプロセスであるような批評は、臨床の場を形作る。関係者の全員が境界線上の当事者となるような、臨床の場。

*12:こちらのページいとうせいこう氏)に、ここで岡崎が話題にしている「ブルネレスキの透視装置」の図がある。

*13:逸脱者を論じる言説内容は、自分自身が「体制の内側」にいるつもりになっている。 対象は「外」におり、論じる側は「内」にいる。 そこでアリバイになるのが「ディシプリン」だ。 逸脱者を論じる言説は、それ自体が境界線上に棲まなければならない。(体制内的にしか振る舞えない人にも役立つことがあるかどうかとはまた別の話。) ▼『論点ひきこもり』というエピソードは、在野をアカデミズムの外部に置き、一方的に観察対象を利用する学生の傲慢さを問題にしている。