「ドゥルーズ - 左翼とは何か?」(Air du Temps)

リンク先の管理人 chaosmos さんが字幕を入れておられて、ドゥルーズ本人がわかりやすい言葉で語っています。
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人権と法解釈の話は強く励まされた。


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「左翼は遠方から考えていく」というのだが、
自分の当事者性を徹底して問い詰めるような議論*1では、自分のいる場所をこそ考えなければならないはず。
「マイノリティになること」云々は、言葉そのものとしては励みになるが、こういう言葉をもちあげて自分は下品な覇権主義でしかないような左翼もたくさん見かけるので、ポーズとしての左翼はどうでもいい。
むしろ、具体的な分析提示において実際にマイノリティとして生成できるかどうかだ*2。 「私はマイノリティですから」と、自分の当事者性(差別的カテゴリー)に居直ってみせることは、マイノリティに《なる》devenir)という言葉にドゥルーズがこだわったことと何の関係もないと思う。
上の動画でドゥルーズが「人権」を叫ぶ知識人をこき下ろしてるけど、要するにそういうことだろう。人をカテゴリーに押し込んで、あとは硬直した正義のイデオロギーを叫んでいるだけの人たち。叫んでいる自分は、「永遠に批判されない正義」をかこつことができる。それがどれほど硬直した暴力性であることか。――その暴力の傘に守られることを希望する人も多いのだけれど。(そういう “当事者” が、既得権益を守るために私を潰しにかかっているわけだ。これは本物の政治闘争だ。)



*1:彼がガタリと考えていた「制度分析(analyse institutionnelle)」や「分裂分析(schizoanalyse)」の議論を、私はそういうものだと理解している。

*2:それは、行く先々でたいへん危険な行為とみなされる。