対談のタイトルを提案した高橋悠治が、「他人の歯の痛みはわかるか」と問いかける。
茂木が何か答えようとすると、さらに問い詰めるように高橋:
「痛みがわかる」というのは、どういうことなんですか。 (略)
「わかる」っていうことの反対は「わからない」なんですか。 (略)
自分が感じていることが確かだということはどうやって解るんですか。
それを疑わないというのは何故なんですか。自分が感じたということは、もう記憶でしかないわけでしょ。「感じた」というふうに言った場合は、もう感じてないわけでしょ。だから記憶なわけですよね。それで、じゃあその記憶が「わかる」というのはどういうことなんですか。どうして、「わかる」と言えるか、というような意味です。
茂木が答える努力を延々とした後で:
高橋: えーと、いちばん疑問なのはね、「どうしてこういう質問に答えられるか」っていうことが非常に不思議なんですね。 (客席から笑い)
茂木: と申しますと?
高橋: つまり、質問があれば答えがあるというふうに思われるわけですか。
「こういう質問に答えられるという前提で考えている時点で、あんたのナルシシズムでしかないんだよ」というふうに聞こえる*1。
これは、「ひきこもり論に没頭することでどんどんドツボにはまってゆく人が多い」という永冨奈津恵氏の警告(参照)と関係するかも知れない。