ポストモダンと「自分の現実」

単に苦しい現実がそこにあるというのではなく、「これは自分が引き受けるべき自分の現実なのだ」という感覚が、ひどく難しくなっている*1茂木健一郎高橋悠治の対談(参照)に顕著だが、いわゆるポストモダンの倫理的態度は、主観の「実感」を破壊する方向をもつ。
過剰に流動的な現実に「実感」を破壊され、ポストモダンな思想に「実感」を破壊される。もう現実には取り付く島がない。そういう苛立ちに、「クオリア」という居直りが安堵を与えているように見える。
独りよがりからの解放を謳うことが、「むなしさ」の表現にしかならない。何を引き受けても、「差異のたわむれ」でしかない。どうせその現実もすぐに流動化して破壊される。「自分はこの現実を引き受けていればいいんだ」という実感は、独りよがりの勘違い*2でしかないとされる。
「自分の現実」という必然性のリアリティなしで、いつまでたっても他人事のような空疎でバラバラな現実を生き続けるのは無理。



*1:【参照】: 『Arisanのノート』:「ぼくが感じてきたこと、そして」(コメント欄も)

*2:ラカンでいえば「想像的」