メモ――文脈と統辞

「勉強不足だから内容がわからない」ということはある、しかし逆に言うと、「内容がわかってもわざわざそれに取り組む必然性がわからない」ということがある。 ▼「生活のために乗り切るべきだ」と言われる。 「生き延びるのが至上命題」なら、それ以上問い詰めてはいけないと思う(サバイバル術としての思考停止)。 問題は、「生活のために」という説得の底が抜けてしまうこと。 生活をやめれば、この苦痛は終わらせることができる。


自分としては何に取り組めばいいのか、「わけがわからなくなる」。 統辞が見えなくなる。 ▼《当事者》という概念枠は、「自分が主人公になる」というナルシシズムだけでなく、統辞が成り立たなくなる苦痛にとって有益に見える。 そこでは、統辞に必要な権威性が問題になっている。 「統辞者」というのは、やや立ち止まる価値のある言葉遊びに見える。


自分としての文脈を形にすることができず、必然性が見えない。 偶然的に自分を組みなおしているだけで、なぜその言葉を組織しているか、よくわからないままアワアワ、うわごとのように努力を続けている*1。 ▼物質的には関係に巻き込まれているが、主観的には完全に孤立していて、空疎な自意識で自分を実体的に確認する*2以外に、自分を律する方法がない。 自分が解体することに常におびえていて、交渉関係に投げ込まれれば、壊滅的になる。


自分を実体化した苦しい硬直は、自分を組織できないがゆえのリアクション。 何かを形にしようとしても、必然性が見えないゆえに霧消して、自意識に舞い戻される。 内的に説得力のある必然的統辞において、ようやく私は去勢され、自意識の牢獄から開放される。


外部世界の文脈は、鋼の強さで屹立しており、そこに自分の言葉をかませるためには(理解が成り立つためには)、自分の側が一定の強度で内的説得力を実現していないと無理。 必然性は、そのためにこそ必要とされている。


必然性の調達できない統辞の弱さ。 ▼文脈からの逸脱には悪循環があり、逸脱ゆえにますます文脈がわからなくなり(必然性が調達できない)、わからないからますます文脈復帰できなくなる。 まず、統辞の強度を必然性の実感とともに回復する必要がある。


クオリア論が受ける理由の一端は、「意識そのものがうまく構成できない」という苦しさにあるように思われる。 体験プロセスを意識すれば実感と強度を調達できるなら、ひとまず「自分を構成できた」という安心に浸ることができる(ニューサイエンス系の自己欺瞞と同じく)。 ▼浅田彰氏がどこかで述べていたが、なにがしか「実感」を担保できなければ、知的で無味乾燥なだけの議論ではどうしようもない。 「参加できている」という、安易ではあっても端的な実感で、ひとまずナルシシズムを担保すること――知的・倫理的な徹底よりも、「参加しているという実感」のほうが、優先順位が高くなっている。


参加的に意識を組織するプロセスは、無自覚にいつの間にか成功している必要があり、意識自体の土台を意識して作り直すことはできない(再帰性)。 それがつまり「動機づけできない」ということ。




無記名の何もないところに放置されてしまう。
自分がなぜそこでそんなことをしているのか、
なぜこの食事をしているのか、
なんでそんな顔で生きているのか、
なんでこの人とかかわっているのか、
なんでそんなことに心を煩わせているのか、
自分はもうすぐ消える肉塊だろうに、
なんでそんなことに心を砕いているのか。







*1:硬直した「べき論」も役に立たない。

*2:「欲望がないというふうにかなり実体化させられてしまった主体」(斎藤環3月6日の講演