「フレーム=コンテクスト=連続性」の資源としての無意識

強迫化した視覚優位の自意識が、自己を周囲世界から切断し(実体化)、自己の適切な有限化を許さない。 これは、去勢のフレームが定まらず、無限の現実に直面してしまう恐怖へのリアクションでもある*1。 ▼説得力のある内発的なフレームの見えないまま、外側からフレームを押し付けて「有限化しろ」と言っても、それは恐怖を恐怖で抑え込むことでしかない。 リアリティに基づいた、自己のフレームの内発的な換骨奪胎がなく、長続きしない。

 フレームは、まさにフレームそれ自体の機能によって、「リアリティ」を産出する。 さらに具体的に言うなら、フレームを切り換える瞬間、そこに「リアル」の感覚が生ずる。 (中略) 私はかつて、この「フレーム」を、より正確に「コンテクスト」と言い換えておいた。
 (斎藤環解離のポップ・スキル』 p.59、p.57)

    • フレームを合理的に策定しようとする意識が強まるほど、フレームはわからなくなり*2、意識はむしろバラバラに寸断される。 ▼実体化と寸断の両極端の往復で、フレーム=コンテクスト=連続性が見えなくなる。

 想像的な変形(=症状)が象徴的なレベルに干渉するという、通常の症状形成とは逆のメカニズムを想定する必要が出てくるでしょう。 (斎藤環*3

必要なのは、意識のアリバイ以前に機能している無自覚的な、盲目的なひきうけで、それこそが、連続性の資源としての無意識ではないのか。 ▼それは意識にとっては、むしろ切断と不連続性をもたらすものと体験され、事後的にのみ発見される*4。 私にとっては、無意識とは、それなしにはフレームが分からなくなるような何かであり、逆に、それがあるがゆえに、流暢な社会順応がことごとく失敗する。



*1:「自意識=再帰性」による去勢のコンテクストの喪失を、人工知能の「フレーム問題」になぞらえて、「去勢否認のフレーム問題」とでも呼べないだろうか。

*2:再帰性

*3:ひきこもり文化論』p.73

*4:フロイトラカン精神分析では、「事後性」はきわめて重要。 ▼フレームそのものをリアルタイムに問題にする制度論的精神療法(psychothérapie institutionnelle)では、やや違う視点を感じるが、それは今後の研究課題。