「専門性」メモ 2 【1】 【3】 【4】 【5】 【6】

  • 「何をすれば仕事をしたことになるのか」への公正な評価が定まっていなければ、「報酬に応じたサービス」へのコンセンサスも定めることができない。 ひきこもり業界の「サービス」は、たとえば心臓外科医が心臓手術をするようには、ミッションが決まっていない。 「何をすれば満足してもらえるか」の事情が、極端に錯綜している。 専門性への公正な評価が、下しにくい。
    • 「為された仕事」に対する、業界・当事者・親御さん・アカデミズム・世間等からの評価が、場当たり的で気まぐれ的。 その「評価の気まぐれさ」が、この業界の整備されていなさを物語る*1。 評価されないまま、「引き受けた人が孤立する」という状況になりがちで、金銭的評価にもなっていない。
    • その事情は具体的には、サービスの料金設定をめぐるトラブルに表現される。 ▼逆に言えば、サービスを受けるときには、事前段階での「料金確認」および「サービス契約の内容」に、神経を使う必要がある。 悪質な業者であれば、事前段階での料金提示がなかったり、「何をすればいくらになるのか」の線引きが明確でなかったりする*2。 「納得できるサービス」の線引きが明確にならない業界だけに、ここにこそトラブルと悩みどころがある。
    • 「○年がんばったのに、それがキャリアにならない」というのでは、業界そのものが認知されていないことになる。 そのことは、ひきこもりそのものへの差別とリンクする。


  • ひきこもりを扱おうとする際に、理論家や言論人に要求される専門性と、対人支援者に要求される専門性の内実は、それぞれにおいて具体的に検証・整備されるべき。
    • 重要な情報を持つ対人支援者には執筆の時間がなく、研究者には現場情報がない。 分業が必要で、それぞれが平行線ではまずい。

 「僕なんかのようにじかに子どもと向き合っていると本を書く暇がないけどなぁ。 とにかく時間がない。 現役の実践者は、実は意外と本を書いてないんですよ。 記録が出ることもまれなんです。 だから、実践が行なわれている現場を記録に残していくのは、実はすごく重要な問題なんじゃないかなと思ってるんですよ。 だって、実践をほとんどやってない物書きの考えだけが先行してるんだもの。」
     【「子どもと生活文化協会(CLCA)」会長、和田重宏氏の発言*3


  • 「ひきこもりの専門性はどのように構成されるべきなのか」についてのコンセンサスがないために、専門性へのリスペクトがないまま政治や言説が動いてしまっている。 【「誰が、どのような手続きにおいて専門家なのか」】
    • 現場の事情をよく知らない人間が、情報の不十分さについてのエクスキューズもないままに、「わかったような顔で口をきく」ことが多すぎる。 それが、実態にそぐわない言説や予算策定につながっているように見える。 ▼とはいえ、「対人支援者や当事者であれば粗暴な議論が許される」ということではないはず。 理論と一次情報のバランスとスタイル(再帰的自己検証)は、誰に対しても課されている。
    • 理論家は現場を知らず、現場は理論を知らない(「現場が知るべき理論などあるのか」という声もある)。 専門的な議論を形成するためのバックボーン、専門知のフォーマットがいまだに葛藤を含んでいる。 【専門知の形成には、複数のジャンル、複数の大義の協働が必要だと思う。】
    • 選択肢は多様であるべきだとして、アジェンダ設定に政治的なものが賭けられている可能性もある。




*1:ただし、「何がどのように評価されるべきなのか」の混乱と葛藤は、政治的な要素として、どこまでいっても残るのだと思う。

*2:1996年からひきこもりの取材を続けている永冨奈津恵氏の警告。

*3:全国ひきこもり・不登校援助団体レポート 宿泊型施設編』 p.26