役割意識に縛られすぎることの弊害

神戸で、あるたまり場スタッフの皆さんに、「制度を使った精神療法」の説明を試みました。 実際に支援に携わる方々に、自覚的に提案したのは初めてでした。 役割意識に縛られることの弊害を論じたのですが、私自身は、この説明を共有いただく作業自体に、憑き物が落ちるような効果がありました。 自意識は、いかに「役割」に縛られていることか。
スタッフの中には、すでに以前から同種の問題意識を持つ方がいたのですが、こういう方が一人おられるだけで、議論や場の状況がガラッと変わります。 本当に貴重。

【焦点】

    • 固定的な役割意識(単なる順応主義)と少し距離を取った議論ができる。
    • お互いの関係から距離を取るだけでなく、自分の役割意識と距離を保つことで、自分の “機能” を分析し、お互いの仕事を点検し、関係の風通しを良くできる。
    • 役割意識と同一化した強迫的なナルシシズムとはぜんぜん別の議論ができる。
    • 理想的には、この話を被支援者側の皆さんとも共有できれば、それ自体がすでに社会関係の試行錯誤になっている。
    • こうした取り組みは、支援現場だけでなく、あらゆる人間関係や職場環境の改善に有益と思える。



「自分は溜まり場に来ているんだから、もうひきこもりじゃない」という、当事者側のなんともいえないアイデンティティ葛藤も、「役割固定」のまずさだと思います。
以下、石川良子氏の記述*1より(強調は引用者)。

 「ひきこもり」というカテゴリーが社会的に用意されているからこそコミュニティが成立し、そこで多くの人々が出会うこともできる。 しかし、ここには「ひきこもり」というカテゴリーを引き受けると同時に、そのカテゴリーから徐々に締め出されていくという矛盾した過程が見出される。 つまり、自助グループなどに参加して対人関係を得ることは、“自己を語るための語彙” を失うことにつながっているのである。
 Bさんも語るように、「外にも出るし、友達もいるし、人間関係もある」という状態は、対人関係の有無を基準とする立場からは、もはや「ひきこもり」とは呼べない。 そうだとすれば自分ははたして何者なのか、という不安が再び頭をもたげてくることだろう。 つまり、対人関係を得た後の当事者のきつさとは、ようやく手に入れた “自己を語るための語彙” を手放すことを余儀なくされ、再び何者でもない状態に投げ出されることによって生じていると考えられる。 Bさんが「当事者」「経験者」「OB」というカテゴリーを使って自分の立ち位置を説明したのも、こうしたきつさに対処するための工夫と言える。
 また前章では、“いま何をやっているの?” という質問に対して答えを用意できないことが当事者に多大な精神的苦痛を喚起し、それから逃れるために社会関係を忌避するようになることを見た。 ここから、“自己を語るための語彙” の喪失と “対人関係の欠如” とは背中合わせであることが理解できるだろう。 “共感的理解が可能な他者との関係性” が失われていることだけが問題なのではない。 “自己を語るための語彙” をもたないこともまた、それと同じくらい重大なのである。



「自分は○○だ」という表象のナルシシズム(役割)を持たなければ、関係性に入っていけない。 「役割」にこだわることの弊害。
お互いの関係は1秒ごとに動いているし*2、それをわざわざ「○○」と名指して固定するのではなく、その場その場でリアルタイムに取り組みなおせばいいはずだし、そうでなければ、理不尽なナルシシズムに閉じることになる。 再帰性の自縄自縛には、「理不尽なナルシシズム」という側面もあるはずです。



*1:ひきこもりの〈ゴール〉―「就労」でもなく「対人関係」でもなく (青弓社ライブラリー (49))』p.123-4

*2:社会保障などの制度との関係では、「この人は○○だ」という役割固定が必要になる(参照)。