「ナルシシズム(しかし事態はそんなに簡単じゃない)」(mimi246さん)より:
今までわたしが何に対して怒り続けてきたのか、全部とは言わないまでも7割くらいわかりました。
それは「他人のナルシシズム」に対してです。
御意。 文化のほとんどが自意識やナルシシズムを基軸にしていて、そのことに強い窒息と怒りがある。
わたしの取れる手段としては、特に他人のいるところでは、自分のナルシシズムが「暴走」しないように可能な限り注意する、というくらいしか思いつきません。他者の存在を他者の存在としてきちんと認識する、配慮する。自分の自意識を暴走させない。言うのは簡単ですが、ていうか実際努力はしてるんですが、結果が出てるかというとどうなんだろう。
「自分はナルシストじゃない」と思い込むナルシシズムは、どうしようもない*1。 かといって、「ナルシストになりたくない」という自意識も、まさに再帰性の問題で、考えるほどドツボにはまる。
いわゆる「自分語り」は、自分のことを語っているようで、実は自分については何も語っていない。 「語る」という役割のナルシシズムに埋没しているだけだから。
現時点を起点に自分のいる場所を分析してみる*2、まずければそれを組み替えてみる*3――というのが、先日考えてみた話だった。
ナルシシズムは、静態的な状態像として改善するものではない。
*1:「ナルシストじゃなくなる努力をしてるから、ナルシストじゃないよね」と思い込むナルシシズムとか。 「これはナルシシズムだな」と分析して悦に入るナルシシズムとか(これは根深い)。
*2:「みずからにおける差異」に振る舞わせてみる
*3:ここでいう「現時点を起点に考える」というのは、むしろ過去を徹底的に検証する作業にあたる(参照)。 当事者論と時間の関係については、あらためて整理する意義があると思う。
*4:それを自分自身に当てはめると、「自分はどうせこういう奴だ」になる。 【参照:『「負けた」教の信者たち』】
*5:刑罰論になるとさらにややこしい
*6:それは悪しき心理学化であり、苦しくなる(このエントリーを書く作業で、あらためて気づかされた)。 「ナルシストにならずにいよう」というのは、問いの立て方を間違っている。