ジャック・パン(Jacques Pain)氏 講演会

聴衆として参加した。

  • パン氏は校内暴力の専門家。
  • 精神の管理社会をどう超えるか?*1で紹介された「制度論的精神療法」と、「制度論的教育学」とはまったく同じものであるとのこと*2
  • ヨーロッパ全土で、生徒が「学ぶ」という欲求を失っている。 フランスでも、学生の「3人に一人は退屈を感じ、5人に一人は授業を理解できない」。 ▼「子供たちの、知への拒否」、あるいは「入り込めなくなっている事情」がある。 これを変える必要がある。
  • 「学ぶ」「教える」とは複雑なプロセスであって、策略が必要。 精神分析の助けが要る。
  • ヨーロッパでは、先生が疲弊している。 1時間の授業で、10分しか授業できなかったりする。
  • 講演の最後は、「注意しなさい、人間たちよ!」(Attention! Être humain*3と締めくくられた。 フランスで、実際にこの言葉が黒板に書かれるという。



私の興味の焦点は、やはり「制度に向けて動機づけられない個人」だった。
次のように会場質問した。

 社会的ひきこもり*4について取り組んでいる者です。
 日本と同様、フランスでも生徒が教育内容に感心を持たないということですが、これを私は、「教師に対して転移が起きない」問題として理解しています。 日本では、最近「ニートNEET)」という単語が話題になるなど、もっぱら「社会に向けて動機づけられない若者」が問題となっており、私見では若者の暴力も、「制度順応に向けて動機づけられない人たち」として処理されているように思います。
 日本では、宮台真司さんという著名な社会学者が、「脱社会的存在」として、「社会に向けて動機づけられない存在」を問題にしており、「《どこまで人間か》問題」と呼ばれたりします。 パンさんは講演の最後に、「Attention! Être humain」と締めくくられたわけですが、日本の実情を知る私には、これが《最後通告》に見えました。――つまり、「この呼びかけにすら反応しない(動機づけられない)者は、人間と見做さないぞ!」と。
 徹頭徹尾、「動機づけられない存在」が問題になっていると思うのです。
 そこで質問ですが、「制度に向けて動機づけられない存在」というのは、パンさんのおっしゃるような「制度論的」アプローチにおいては、どのように扱われるのでしょうか。

これに対して、パン氏よりの応答。

    • 伝統的な学級のあり方では、ソクラテスの時代のような転移*5はあり得ない。
    • 教師と生徒という関係だけで考えてはいけない。 二項関係ではなく、第三項としての「制度」を考える必要がある。
    • ひきこもりは、日本独特の症状(symptôme japonais)だ。



驚いたのは次の発言。

 制度論的方法を導入すると、ひきこもりは原理的に発生し得ない。 教室に「逃げ場」がある。

「ひきこもり」の実態や内実について正確にご存知だとはとても思えないし、今は留保したいが、どうやら問題となっているのは、「制度外の存在」があり得るのか否か、という点であるようだ。 ▼スタティックに「制度の中」と「外」を峻別する発想ではなく、「中」と「外」という分け目じたいが流動的というか、可変的なものとして理解されるべきということか。
これについては、私自身は「転移操作」の問題として理解しているのだが、どうだろうか。 ▼ラカン派の面接室における、ある種「権力的」*6と呼ぶべきかもしれない転移操作のテクニックと、その場に参加している面々が「会議をするように」進められる転移操作と。 ▼これが、「ラカン派」と「制度論的精神療法派」の、理論上の対立点を作っているように思うのだが。*7


パン氏からのお返事の締めくくりは、次のようだった。

 人間存在は言葉を通じてある、つまり人間を「語る存在(l'être parlant*8」と考えれば、どのような生徒に対しても、教える可能性が残されている
 魅力的な女の子に出会ってしまった男の子は、その子に手紙を書くために、学びたいことが出てくるだろう。*9
 「教師は、精神を覚醒させる存在である」という言葉がある。 つまり教師は、個別性に敏感であるべきだと思う。

「社会に順応させる」のではなく、「目覚めさせる」という発想。
これは本当に重要だと思う。
しかし、「どこまでもあきらめずに制度的にケアする」というのは、個人的な倫理意思の表明としてはあり得ても、公共圏や制度設計の問題としてはあり得ないのではないか。 ▼これが今後の課題。



*1:この本の中で、ジャン・ウリにインタビューしているのがジャック・パン氏。

*2:参照:『学校教育を変える制度論―教育の現場と精神医療が真に出会うために

*3:同時通訳の多賀氏の勧めで、実際にパン氏がフランス語で板書した。

*4:講演のなかで、パン氏は何度か「hikikomori」という単語をそのまま口にした。

*5:このときパン氏は、transfert absolu」(絶対的転移)という言葉を使われた。 対義語はtransfert relatif」(相対的転移)だと思うが、おそらくアドリブでその場で考案された言葉だろう。

*6:「だからまずい」とすぐに言う気はない。

*7:これはそのまま、「無意識」についての理解の仕方、アプローチの仕方の違いであると思う。

*8:ジャック・ラカンの議論。 パン氏もラカンの名を出して説明した。

*9:これは、「転移」と「学び」の関係を語っておられたのだと思う。 ▼この「男の子と女の子」のくだりが訳されるのを聞きながら、いろいろ思い出して目頭が熱くなってしまった。(多賀氏の真摯な語り口のせいだろうか)