「文脈」と「制度」

4月18日、三脇康生氏のお招きで仁愛大学のゲスト講義にお邪魔。
ラカン精神分析を参照する斎藤環氏と、ジャン・ウリ*1ガタリらの「制度論的精神療法(psychothérapie institutionnelle)」を参照する三脇康生氏は、理論的なお立場として対立関係にあるはずだが、私は個人的にお二人の両方から、理論的・臨床的に*2恩恵を受けたと感じている。 このお二人の間にどんな議論があり得るのか、とても気になっている。
斎藤環氏の「文脈(コンテクスト)」、三脇康生氏の「制度」は、ともに「ゲームのルール」の話をしているように見える。 現実をうまく構成できないと感じている私は、この両者に、去勢のフレーム問題を見ている。 制度論は、去勢=転移のフレームが固着することを避けようとしているように見える*3。 逆に言うと、80年代に喧伝されていたドゥルーズ=ガタリの思想は、ひたすら分解や多様性を称揚しているのみに見えてしまい、自分がうまく組織できずにいた私には耐えられなかった。





*1:ウリはラカンの弟子で、『アンチ・オイディプス』出版時、エディプス構造を認めないガタリらの主張に激怒したとのこと(三脇氏の論考より)。

*2:お二人は精神科医だが、私はどちらに対しても、契約上の「患者」になったわけではない。 それぞれの理論的なお仕事のおかげで、個人的に楽になれたということ。

*3:私の「制度論」についての知識や理解は、『精神の管理社会をどう超えるか?―制度論的精神療法の現場から』、とりわけ三脇康生氏の論考を参照している。