映画 『破片のきらめき 〜心の杖として鏡として』

ueyamakzk2008-12-21

  • 予告編】 (2008年内の上映情報
    • NHKトップページ」→右上の「福祉」→「福祉ネットワーク」→「2003年4月〜2006年3月の放送記録」→「2005年6月21日: アートが心を癒してくれた 〜映画『心の杖として鏡として』〜」――と辿っていただくと、この映画を取り上げた番組の放送記録にたどり着くことができます。*1



以下のイベントに参加してきた。

 上映会と討論会:
 《心の杖として鏡として ――精神医療と芸術活動》

 1967年から東京足立病院、丘の上病院(95年閉院)、平川病院などで造形家 安彦講平(あびこ・こうへい)氏によって行われている「造形教室」。 そこで試行されてきた、自己表現の体験を通して自らを癒し支えていく「営み」としての創作活動は、医療とは何か、そして「アート」とは何かということを今一度問うことを私達に求めているのではないだろうか。

パネル・ディスカッション

 主催:科研費研究プロジェクト「ひと概念の再構築をめざして 〜人文科学・アート・医療をつなぐ問いかけ」

造形教室を主宰されている安彦講平(あびこ・こうへい)氏は、精神科医ではない。 一般の学生さんや地域住民が訪れて、絵のモデルをすることもあるという。


強く感じたのは、「精神病の患者さん」という線引きの功罪だ。
この映画には、病院の造形教室にいた男性が、銀座の画廊で個展を開こうとする場面がある。 出品されるご本人が、「《病人の絵だからすごい》じゃなくて、作品だけで勝負できる今回が出発点」みたいなことをおっしゃっていた*3。 しかしそれは、彼がクソミソにけなされる出発点かもしれない。 「患者さんの絵」と区分けされるところでは、過剰に攻撃的な批評には出会わない*4。 しかし作品だけで勝負すれば、特別扱いは受けないし、メチャクチャなことも言われる。


たとえばひきこもり支援では、施設の中でケアを受けながら働いていた人が、いきなりバイトを始めたときに絶望することがある。 一人ひとりに寄り添う《支援》のロジックと、人を道具としか考えない《社会参加》のロジックが、解離している。 支援施設の中で本人が頑張ることは、外の世界とほとんど接触できていない*5
私はそこで、「自分を売る」という解離的な社会参加だけでなく、「作る」という社会参加にコミットしていけないか、と思うのだが*6。 単に順応するのではなく、真摯に作っていく努力に、自分なりの統合と政治がある。 いきなり完成形として「順応できた!」と考えるのではなく*7生活の制作過程がずっと続くイメージが重要だと思うのだ。(夜郎自大な権利主張には、ていねいに「作る」という契機が全くない。)


ひきこもっている人は、明白な病気・障碍の診断がなければ、社会保障は一切ない*8。 逆にいうと、カテゴリー的な身分保障だけを考えていては見えてこないような社会への取り組み方が必要だし、ひきこもりを考えることでそういうチャレンジの内実が見えてくる。 ひきこもっている人を外在的に「対象化」して考えていたのでは、ここの事情は見えてこない。 要するに、メタ的な観客席にいたのではプロセスが見えない――やっかいなのは、ひきこもっている本人自身が観客席の意識状態にあることだ。



イベントで示唆的だったご発言

多賀茂(たが・しげる氏(大意):

 (ある患者さんのエピソードから*9) 芸術作品の創造やその鑑賞には、無意識に関する危険な要因もある。

立木康介(ついき・こうすけ氏(大意):

 (フランスで臨床研修した際の体験について) 精神病者は、人には転移しないかもしれないが*10、場の雰囲気には転移する。

ラカン派の立木氏がこうおっしゃったのは、嬉しい驚きだった。




法貴信也(ほき・のぶや)*11(大意):

 技術は、教わるだけのものではない。 作家として、「自分はこういうことをする人間だ」ということをはっきりさせてゆく。 偉い人にすり寄ればいいのではない。 自分が見たいものを自分で実現していく。

 プロになるとは、美術の世界に適応していくということでもある。

「上手になるかどうか」と、「作る人になれるかどうか」は、似て非なるものか。
私はひきこもり支援では、むしろ後者が決定的な焦点ではないかと思う。 「上手になる」というテーマと、過程を維持できるかどうかは、似ているようで全く違う。 既存の就労支援は、「上手になる」ことしか考えていない。 持続的に取り組んでゆく動機づけの話が、テーマとしてすら抜け落ちているのだ。
たとえば私自身でいえば、私の提出するひきこもり論の内容そのものはシビアに問われる。 そこには政治的責任もあるし、甘えや容赦は許されない。 しかし私自身において、というかひきこもり論において絶対に忘れてはならないポイントは、私がそれを曲がりなりに続けられているということだ。 何をしてもまったく続けることができなかった私は、自分にとって耐えがたい傷の一つであるこのテーマ構成に、徹底的に執着している*12。 「間違ったひきこもり論をされることに耐えられない」というこの鬼気迫る執着は、完全に内発的なものであって*13、誰かに強制されたものではない。――支援論においては、この顛末をこそ研究すべきなのだ。
立木康介氏は、創作にかかわる「傷=現実界」に言及されていたが、私はこの執着なしには自分がバラバラに解体してしまうと感じていて、生活の中で強い恐怖がある。 言葉がまとまらなくなって、動機づけのすべてが破綻するのだ。
これは統合失調症そのものではなく、「ポストモダンの条件」だと思う(参照)。 「言葉が上滑りしてしまう」というのは、私が斎藤環氏の講演会時に陥った状態だ(参照)。 私にとって、意識とは「作るプロセス」に等しい(労働過程としての意識)。 間違った臨床論や言説体質は、私の「意識の制作過程」を悪化させる。




■2002年・2004年と、平川病院造形教室の展覧会*14に関わられた藤澤三佳(ふじさわ・みか)氏(大意):

 美大の学生が、今回の映画や作品・作者の皆さんから、多大な刺激を受けたらしい。 学生たち自身が、作品を作ることでやっとその日を生きている。

 学生の感想文で最も多かったのが、《うらやましい》だった。 美大の学生はたいへんな制約を感じながら作品を作っており、「自由に作れる患者さんがうらやましい」という。

美大の学生さんには、ひきこもってしまう方も多いと聞く。 そもそも、いまの社会に違和感があるからこそ芸術系に進学されたのかもしれない。 しかしそこでチャレンジした《表現》が、自分を元気にしていく方向ではなく、ある種の自傷行為に化していく危険が常にある。 これは三脇康生氏からも聞かされており、言葉での表現を続けてきた私も他人事でない。




大島成己(おおしま・なるき)氏の、安彦氏への質問(大意):

 私は基本的には、作品を作らないとやりきれないから作っている。 しかし、すべてが無意味に感じることがある。 どうモチベーションを持続させていくかということは、造形教室ではどうされているのか。

生活意識を維持するために、最も重要な問いかもしれない。
これに対する安彦(あびこ)氏の直接のお答えは、私にはよく分からなかった。 しかし、氏が造形教室の運営についておっしゃった、「結果的な作品だけでなくて、プロセスが大事だ」というお話が、カギに思える*15
私は最近、まさにその《プロセス》を論じようとして格闘し、あまりうまくいっていない。 今回の参加で痛感したが、プロセスの話は、一人でやろうとしても無理がある。
私は飲み会が苦手で、いつも眩暈(めまい)に苦しむのだが、今回は皆さんとご一緒しても気持ちが楽で、帰りの電車でも精神状態がちがった。 一人でいる時より楽ではないかとすら思えた。――実際にこういう体験をしないと、いつもの自分がほとんど息のできない状態にあることに気付けない*16



*1:【訂正とお詫び】: 当初はここに、NHKの番組記録への直接リンクを記してあったのですが、掲載後に、「NHKオンライン利用上のご注意」の記述について、ご指摘を頂きました(ありがとうございます)。 それによると、「NHKが承認した場合を除いて、NHKトップページ以外へのリンクはお断りいたします」とのこと。 修正し、お詫び申し上げます。

*2:仏題「Le cri du cœur

*3:「支援対象者」として身分差別的に見下される経験のある私にも思い当たる。

*4:芸術創造という舞台設定より、治療行為であることが主だから。 とはいえこの映画を観ていると、そんな安易な境界策定はできなくなる。

*5:オランダのノッテルダム市には、1階で障碍者のアート作品を展示・販売し、2階がその制作場になっている「ヘーレンプラーツ」(Herenplaats)という場所があるという。 「アウトサイダー・アート」とも紹介されているが(参照)、最初から「アウトサイダー」と名指している時点で、人間のカテゴリー化が機能している(参照)。 一般的に、弱者支援論は「人間のカテゴリー化」に基づいており、最初から差別的色彩が強い。

*6:美術作品を作るだけでなくて、社会参加の姿勢自体が「順応」ではなくて、「作る」。――たとえば私にとっては、自分の参加している中間集団を「分析する」ことが、「作る」にあたる。

*7:それは、結果しか見ないナルシシズムだ。 「誰でも受け入れる」というリベラリズムの標榜者は、このレベルにしかない。 正義論でお互いのPC的ナルシシズムを担保しているに過ぎない。

*8:だからこそ親の会は慌てている(参照)。

*9:【※2008年12月24日追記】: 記載を削除・修正いたしました。

*10:それがラカン精神分析の通説的見解

*11:タカ・イシイギャラリー「法貴信也展」 京都、2008年11月20日(木)- 12月27日(土)

*12:ひきこもりそのものがテーマというよりも、動機づけや継続的な執着そのものがテーマになっている。 逆にいうと、「ひきこもりを何とかしよう」というアプローチは、ひきこもりについて何も考えられていない

*13:結果がシビアに問われることに耐えるには、ほかのいい加減な取り組み方では無理だった。

*14:どちらの年も、6日で700人の来場があったとのこと

*15:昨今の知識人たちの言説は、老若男女とわず、結果にばかりこだわっている。 メタ的に語っておきさえすればいいというような、ベタベタのナルシシズム。 労働過程を間違っている。

*16:斎藤環氏は、震災時のエピソードに敏感に反応くださっている(『文学の断層 セカイ・震災・キャラクター』)。 ひきこもりそのものというより、「呼吸を楽にする方法」について考えることで、問題の焦点が明らかになるかもしれない。