カテゴリー化か、発言機会か

先日は、公共的なひきこもり支援事業のタイトル案について呼びかけをさせていただいたのですが(参照*1、その後の話し合い等を経て、さらに悩ましい焦点が見えてきたので、あらためて状況を整理してみます。


全国引きこもりKHJ親の会」は、「ひきこもりの8割は病気の圏内にある」(参照)という主張で厚労省を説得し、精神保健福祉領域の社会保障費に「ひきこもり」枠を設定するよう強く求め、かつ厚労省もそれに動かされています。 厚労省の交渉窓口は現在のところKHJに一本化されており、ここにはほかの団体や、ひきこもる本人の意見も入れてもらえません(!)。
今のKHJには、「病気や障碍の診断を受けて、社会保障を得る」という発想しかありません。 これでは、「誰が恩恵を受けるのか」で診断の獲得競争になるだろうし、ひきこもる演技もあり得るでしょう*2。 がんばって社会復帰したほうが、バカを見るわけです。
またこれでは、労働環境をめぐる大きな動きと連動できません。 「社会保障が得られるかどうか」だけが争点なので、継続的な社会参加の難しさそのものについては、政策的な取り組みにならない。 そして何より、支援事業が親目線でしかないために、本人サイドからの取り組みが置き去りです。


親の会には、「このままでは扶養義務をぜんぶ親が負わされて、家族もろとも社会から見捨てられてしまう」という強い恐怖があります。 だから医療化・福祉化して、扶養責任を社会保障に求める。 この絶望は本当に深いものです*3。――それゆえ、ひきこもっている側や支援者が、何らかの形で「親の負担を減らす」選択肢や実績を示さなければ、親の会はこのまま恐怖心に駆られてどんどん突き進んでしまうでしょう。
今の親の会は鬼気迫る状態にあり、逆らうとなると命がけの感じです。 とはいえ、診断カテゴリーへの強迫観念だけでは*4、「自分は○○だろうか」の自意識ばかりになり、長期的には本人の取り組みを阻害するとしか思えません。


医師も学者も、左翼も親の会も、まずは自分たちの都合に合わせてしか引きこもりに取り組みません。 苦しむ本人の声は、つねに黙殺されています(声を上げたとたんに排除される)*5。 まずは「本人の声に権利を与える」ところで、公共的に揉めるべきではないでしょうか*6。 それは、親に全責任を負わせることではないし、ひきこもる本人から責任を免除することでもないはずです。


来年早々にも、支援法案が可決されるというお話もあります。 本人側が支援事業に参加する手続きについて、模索を続けたいと思います。



*1:ご意見をくださった皆さん、ありがとうございます。 必ずしもご期待には添えないと存じますが、関係者への伝達に努めます(今後も募集は続けます)。

*2:審査を必要としない「ベーシック・インカム」は、この意味で希望を残します。 親の会にも、この情報をお伝えしました。

*3:親の会がつかんでいる実情は、世間が知るよりもずっと深刻です。

*4:もちろんこれは、オーソドックスな意味での病気や障碍の診断を否定するものでは全くありません。 社会的ひきこもりでは、既存の診断枠がうまく機能しないからこそ悩ましいのです。

*5:逆にいうと、ひきこもりをめぐる葛藤は徹頭徹尾「政治的」です。 政治の場面では、政敵が意見表明をあきらめることが目指されるのは当然のことです。

*6:一般の政治と同じく、ひきこもる本人たちの意見はバラバラだし、無茶な要求をする人もいます。 あくまで親の会に従いたい人もいるでしょう。