いきなりつながろうとするのではなく、「問い直し」の合流を

Klee 「動物たちが出会う」

■「シンポジウム:ひきこもり巡り、「ほっとねっと兵庫」が初めて」(毎日新聞

 ひきこもりの若者や家族を支援している県内の15団体からなるネットワーク「ほっとねっと兵庫」が来月(2月)15日、神戸市中央区で初めてシンポジウムを開く。ひきこもり経験者や支援者の意見交換を通して、ひきこもりを巡る現状を伝えるとともに、各団体の取り組みをアピールして、悩みを抱える家族に相談を寄せてもらうきっかけとするのが狙いだ。
 ほっとねっと兵庫は、ひきこもりの支援に取り組む神戸や姫路、篠山などの団体が07年6月に結成。西脇市の家族会「トークトーク」が結成を呼びかけた。訪問支援や居場所作り、就労支援、家族会など、それぞれの活動に取り組む団体が情報を交換したり、課題を話し合ったりしている。シンポジウム開催を契機により連携を深め、行政への働きかけなど、協調して取り組む狙いもある。(2009年1月30日)

■「ニート自立へ地域協議会=青少年対策で新法−内閣府」(時事通信

 ニートや自宅に引きこもる若者の自立や就労を促すため、内閣府は今国会に「青少年総合対策推進法案」(仮称)を提出する。教育委員会ハローワーク、民間非営利団体NPO)などで構成するネットワーク「地域協議会」を自治体レベルで構築。各機関が連携して相談に応じたり自宅訪問したりして、自立まで継続的に支援する。3月上旬の閣議決定を目指す。
 総務省によると、15〜34歳で就業も通学もしていない若者は全国に約62万人。「引きこもり」は、厚生労働省研究班の推計で約32万人いるとみられる。麻生太郎首相は昨年9月の所信表明演説で、こうした若者を支援する新法を制定する方針を表明していた。(2009/01/31)



不登校やひきこもりは、「社会に参加するということ」、とりわけ「人の集まりはどのように運営されるべきか」をめぐる各人の思想をむき出しにします*1。 逆にいうと、いきなりつながろうとするだけでは、お互いの無自覚な方針は温存されたままです。――最初からつながりを目指すのではなく、むしろお互いの前提をこそ、問い直す必要がないでしょうか。

ひきこもる人同士が仲間を作るときも、お互いがどうやってつながればいいかが分かりません*2。 そもそも、その「つながりを作る」ことができないからこそ苦しんでいるのですから。 「多様性があればいい」というだけでは、お手上げです。 支援団体を見比べても、自分に合う選択肢がなければどうするのか。 選択肢じたいを自分で作り出すとして、ではその新しくできた場所は、どうやって「つながり」を維持するのか?


「ひきこもる人を何とかしよう」。 本人であれば、「このどうしようもない自分を何とかしよう」。 しかしひきこもりは、むしろ自分や誰かを操作対象とすること自体の苦しみです。 何とかしようと、《外側から》操作すること。 それは、本人が自分を考える場合でも、《外側から》になっています。

ひきこもる人は、つねに高みから自分や関係を見おろし、かと思うと自己卑下します*3。 「だからひきこもる奴はダメなんだ」ではなくて、その視線の構図自体が、「時代の考え方のスタイル」であり*4、その視線の構図においてこそ、自意識的な拒絶が反復されています。 ▼「外部」や「上」から何とかするのではなく、自分がすでに生きているつながりをこそ問い直すこと。 「集団に合流してもらおう」*5ではなく、その問い直しの作業にこそ合流してもらうこと。 ゆるやかなネットワークは、それ自体としてどうしても必要でありつつ、そのネットワーク自身が、既存の「つながりのロジック」を再生産する場でないかどうか。――私の問題意識は、そこに集約されつつあります。


不登校や引きこもりに関わっていると、本当に嫌になるほどトラブルが絶えませんが*6、それはこの問題が、まさに「人の集まり」を問い直すからでもあります。 ひきこもりをめぐるトラブル自体を「くだらない」とバカにする声も聞きますが、いくら下らないトラブルに見えようとも、そこにはその「具体的ないきさつ」がある。 それを「素材=マテリアル」として検証すること、その検証の作業こそが、私の提案しているものです*7

この呼びかけは、第三者的な一般の皆さんにも向けられています。 社会参加している方々を問い直さず、ひきこもる人だけに「あなたも健全になりなさい」というのは、最初から欺瞞です。 社会生活は紛争であり、各人はつねに、順応の制作過程にいるはずだからです*8



*1:そのため、支援する側同士でも、される側同士でも、また支援する側とされる側のあいだでも、対立が絶えません(私自身がその渦中にいます)。 こうした対立がある中で、集まりが試みられること自体が画期的です。 ▼【参照】: 2004年3月『関西《社会的ひきこもり》支援ガイドマップ』、2005年9月『首都圏版 社会的ひきこもり 支援ガイドマップ

*2:結果的に、「影響力のある論者の意見をコピーした人が集まっているだけ」ということすらあります。 それは「ひきこもり当事者」の集まりでありつつ、つながりの作り方は、既存社会や誰かのモノマネでしかない。 宗教団体や政治団体のように、イデオロギーの復唱を求められても困る――と言うのは簡単ですが、自分の側じしんが、そうなっていないかどうか。 私はその問い直しをこそ呼びかけています。

*3:これは単なる傲慢ではなく、自意識に監禁された状態での自己肯定感情のなさであり、「自分で自分を意識してしまう」という自己硬直のメカニズムそのものです。 はまり込んでいる発想のスタイルはむしろ保守的であり、いわば老人的ともいえる。 現役の柔軟性がありません。

*4:環境管理のさなか、観客席から「ハマれる」対象を探し、自分を「売ろう」とする。 大きな物語がなくなったといっても、嗜癖や売買の事情がバラバラなだけで、全員がメタ的なアリバイ王国に監禁されています。

*5:オルグ(組織への勧誘行為)としてのひきこもり支援

*6:以前の私は、とにかく集まりを求めて(作ろうと)していましたが、今の私は、中間集団こそが危険だと思うようになりました。 逆にいうと、そこにどう取り組むか、という制作過程の共有と、そのために必要な法的思考等の道具立てが、どうしても必要になりつつあります。

*7:メタに批評して高みに立ちたがる人は、そのメタ批評で「つながり」を作っています。それはその人自身のナルシシズムを満たし、固定された生産過程を反復するだけで、その生産過程の構図そのものにひきこもりを生み出す悪しき構図が再生産されている。 「ひきこもりを論じれば論じるほど本人の状態が悪くなっていく」という永冨奈津恵氏らの指摘(参照)は、ここで考えるべきです。

*8:中間集団での体験や関係を素材化する取り組みは、ひきこもった本人や支援者・一般の方のどなたからも、本当に怖がられ、激怒を買います。 ここには、「社会参加について考えようとすればするほど、社会から排除されてしまう」という構図があり、やや途方に暮れています。