中間集団と党派性

ひきこもりは、直接には「中間集団からの脱落」という形を取る*1。 逆に言えば、サバイバルの鍵は「中間集団への参入」にある。 経済的な事情をまかなえる中間集団に恒常的に参加できれば、それ以上「社会参加」する必要はない(これは誰でも同じのはず)。*2
ひきこもりは弱者の問題だから、支援的な興味を持ってくださるのは左翼系の方が多い。 私は10代にはじまり、いくつかの左翼系の人間関係を経験したが、どうしても気になるのが、その強烈な党派性だ。*3
こちらがいくら社会的に弱い立場にあっても、「党派の敵」と目された瞬間、殲滅しても構わない相手にされてしまう*4。 一旦スイッチが入ってしまったら、もうどんな抗弁も通じない。 イデオロギー的正当性を主張する人たちは、「100%の正義の味方」という独りよがり――いや「集団よがり」――に陥る*5


党派的な中間集団を形作るのは左翼だけではない。→ 「党派性のない中間集団」はあり得るだろうか。
それぞれの個別社会には、各々独自の「関係のロジック」がある。 営利団体(会社)、アカデミックサークル、任侠集団(ヤクザ)、趣味のサークル、マイミク*6・・・・。 どこにも属せなかった者が孤立する。 ▼考えてみれば、家族の中で孤立している引きこもりは、扶養されつつも、「家族という党派」の中で孤立している。 支援者による家族への説得は、本人の党派的回収を目指している。


完全に孤立してしまった弱小個人にとっては、「中間集団に参加できるか否か」に生命線がある。 だとすれば、「どのような体質の中間集団があり得るのか」「どうそれを作ればいいか」は、本当に喫緊の研究課題であるはず。 ▼「イジメが生まれない集団であるといいですね」といったスローガンを掲げるか否かは保障にならない*7。 そういうスローガンを掲げることにおける排他的党派性もあり得るし、逆に言えば、「一人の振る舞いが皆から批判されてはならない」という意味でもないから。*8 ▼いや、逆に言えば、ひきこもっている人が弱小なのは、「党派を作れないから」であって、むしろ人間が集団を作れば必ずそこには党派ができるのだから――それどころか必要なのだから?――、「いかにして党派を作るか」を研究すべきだろうか。 ▼「党派の作れなさ」自体が、症候的に形作られた弱さに見える。
中間集団は、生活防衛や象徴闘争のための重要な拠点として機能する。 若者が弱者化する大きな理由の一つは、「中間集団忌避」の症候的逸脱にある*9。 ▼重要なのはそれが「症候的逸脱」であって、自由意志によってすぐにどうにかできるものでもないということ。 無理に所属しようとしても、苦痛がいや増す。



*1:フリースクールは「学校以外の居場所」を提供したが、そのフリースクール自体が新たな中間集団であり、当然そこにも脱落者が居る。

*2:たとえば家族内(という中間集団)に充分お金があってそこに扶養関係の合意があれば、それ以上「社会参加」する必要はない。 ▼支援者がご家族に対して「無条件の永遠の扶養」を強要することは、私人間の契約自由の原則を無視する中央集権的振る舞いに見える。 ご家族は、「同志」であることを求められる。

*3:多くの場合、それは本人たちに自覚されていないし、指摘すると激怒を誘う。

*4:「そういう人ばかり」というわけではありません。

*5:関係者の全員が党派的に振る舞うわけではない。 ごく一部分の数名だけでも「党派的な振る舞い」は成立する――周囲がそれを黙認すれば。

*6:mixiで、「直接のお友達関係」を意味する。 それはアクセス権限の線引きとして、技術的に成立する。

*7:でも、掲げないよりは掲げたほうが絶対にいい。

*8:中間集団全体主義」というのはよく問題になるけど、「中間集団のリベラリズムってのは本当に難しい・・・

*9:労働組合にすら属せない。