自己矛盾による批評の拒否

「すべて受け入れてほしい」と願うあなたは、自分を受け入れない人を認めない。
つまり、他人を条件つきで見ている。
受け入れてくれるか否かではなく、お互いに「なにをしているか」を見なければ、批評が排除される。

 「生命を無条件に肯定せよ。さもなくばお前を殺す」*1
 「動物化してかまわない。でも僕をぞんざいに扱うことは許さない」*2

解離的な自己矛盾が、党派性の核にある。



【追記2009-02-21】 関係の臨床

  • 「全面的に受け入れる」など、お互いに絶対にできない。 全面的に受け入れることを要求する人間は、きわめて不寛容だ。 条件文を出さずにいられる者などいない。――問題は、条件文の中身だ。 容姿の美しさを問うのか、忠誠を誓わせるのか。 ▼「大きな政府・小さな政府」は、中間集団*3でこそ問われる。 単に “自由な” 集まりは、じつは見えない枠組みを再生産する。 左翼党派は、反論を許さない。 どちらでも生きていけないのに、どちらかしかない(だから引きこもるか、自殺するしかなくなる)。 私は、「ではどうすればいいのか?」を考える。 個人を対象にする臨床ではなく、いわば「関係の臨床」を。


*1:命令に従うことが、生命を肯定される条件になっている。 条件を満たさなければ殺される。

*2:お互いに動物なら、中間集団で犬のように扱われても文句は言えない。

*3:性愛をふくむ「二者の関係」を、最小の中間集団と捉える必要がある。 そこにはすでに、「関係のロジック」が再生産されている。