「表象の不可能性を超えて」(野崎泰伸氏)

岡真理『記憶/物語 (思考のフロンティア)』からの引用とコメント欄のやり取りが刺激的で、長文の書き込み。 自分の部分を転載します。

 当事者性にとっては、言葉で処理しきれない《過剰性》が問題なのだと思います。「何を言ってもいい」というのは、言ってみないと、自分が何を考えているかも、状況がどうなっているかも分からないし、《事後的に》のみ、それを検証できるからではないでしょうか。【事前に自分が何を言いたいか分かっている「告白」との違い。】 ▼当事者の存在は、自他にとって、得体の知れない過剰性の実存になってしまう・・・。→ 「正当性」の検証は、《事後的に》のみ可能なのだと思います。事前に制約を課すのは抑圧だし、事後的な検証を拒否すれば、「当事者の語り万歳」になってしまう。 ▼【野崎さんも触れておられましたが、】「事実の重み」と「倫理」、あるいは「存在」と「言葉」の絡み合い(肯定のロジック)に、時間的な理解と手続きが不可欠という気がします。

 当事者性とは関係ない公的な意見表明は、事前に「○○が真実である」という確認を自分でしています(外部からもそれを求められる)。 しかし、自助グループ的な当事者発言=私的な会話では、自分の過剰性をもてあそびながら、実験的な意見表明を試み、そこで試行錯誤することになる(取り乱すこともある)。 ▼要求される責任構造が違うように感じるのです。【たとえ《当事者の意見》であっても、公的に表明された意見は権利上ほかの人と同等に検証されるべきだと思います。】
 私たちが《当事者》論を必要とし、それを通じて呼び寄せようとしているのは、まずはこの「事後的な責任構造の枠組み」ではないでしょうか。



過剰性も事後性も、「当事者」「ひきこもり」に関する決定的な焦点と感じています。