「問題の支配」=「論者の支配」?

 「他の人々を支配しようという欲求は、自己の部分を支配しようとするゆがんだ欲動として、ある程度説明できるだろう。他の人びとの中にこれらの部分が過剰に投影されると、投影された部分はその人びとを支配することによってのみ支配されうる」(『メラニー・クライン著作集4 妄想的・分裂的世界誠信書房、17項)*1

内藤氏はこのクラインの一節を、「ニート叩きをしている人たち」への分析として提出している。それに「なるほど」と賛同した上で私が思い出したのは、まったく別の問題だった。 つまり、ひきこもりの当事者・親御さん・支援者のサイドから繰り返し私に突きつけられる、「議論をやめろ」というプレッシャー・・・。▼これは、「上山も俺たちを無理やり社会復帰させようとしているんだろう」という苦情なのか(それならば内藤氏と同じ主張で頷ける)、それとも、問題に固執して論じようとする人間を支配すれば、問題そのものを支配できたように感じるからなのか・・・。*2



*1:「ニート」って言うな! (光文社新書)』p.173より孫引き

*2:重要なのは、議論が「批判」されるのではなく、論じようとする営み自身が「否定」されることだと思う(「批判」ならいいに決まってる)。 これはもちろん、現実に私が続けていけるかどうかとは別の問題だ。