≪自発≫: 自然(じねん)と人工

「愛する責任」「自発性をもつ責任」 → 自然(じねん)的な愛や自発のないところでの人工的責任とは何か。
親への愛や社会(国家)への自発性を持てない場合、「愛(自発性)を持て!」(愛や自発性の強制)ではなく、すでに機能しているはずの自発性への作用機序を構想すべきではないか。 「すでに機能しているはずの、コッソリ隠しているはずの自発性すら認めないのは卑怯だ」。 ex.誰かへの愛情、「生きていきたい」「楽に死にたい」「許せない」など。


支援者の一部は(そして部分的には私も)、次のように言う : 「実際に対人関係ができ、相応に仕事が順調に運んでくれば、いつの間にか『殺してやる』『死にたい』などとは言わなくなる」。 しかしそれだけ言っていると、「環境を変える」という努力要因が無視される。 実際に当事者が「参加経験を積む」ことによる訓練は必要だが、「労働環境を改善する」努力がなくなっていいわけはない。 【自発性の醸成環境という課題】
そしてさらに深刻な問題は残る。 「参加体験にすら出てこない人」は、どうすればいいか。 「参加してみればいろいろある」かもしれない。 しかしその参加に向けてすら能動性(自発性)を発揮してくれないのであれば、少なくともその「参加」の部分だけは、強制するしかない。 「参加したあと」は強制できないにしても。


「神様が守ってくれた」「守護霊が・・・」といった理由で家を出た事例も聞いた。 私は思想としては同意できないが、理由はどうあれ客観的状態としては「ひきこもり」を脱している。 【自発性の起動因と、思想選択】