ためいき

読む必要があるんじゃないか、と思う本をリストアップしていったら、とんでもない冊数になった。
よく、本の最後に「文献」として何百冊ものタイトルが並べられてるじゃないですか。
あれ、全部読んでるんですよね、著者のかたは。


「読まなければならない」という義務感と「読みたい」という欲望の境界線は曖昧だけど、義務であっても「読もう」という気になっている時点で「参加しよう」という気になってるんだと思う(議論に参加する、という形での社会参加)。
それはやっぱり僕としては画期的なことだし、逆に言えば「本を読む気がなくなる」というのは、「議論に参加する気になれない」あるいは「参加することなどできない、と諦めてる」ということでは。
「議論に参加したって得られるものがない」という諦念は、「社会に参加しても地獄を見るだけ」という諦念に通ずる。


勉強しよう、という気になっている時点で「参加意欲」なんだと思う。
なぜそんなことをする気になっちゃったか、というあたりに、「能動性」へのヒントがないか。
――自分なりの徹底した穴掘り作業(探求)、そこから思いもかけず生まれた喜ばしい出会い(底のほうで偶然横穴がボコッと通じたような気持ち)、小さな成功体験、・・・・。


何か、自己目的的なトランス状態が必要なんだと思う。
でも、「自己目的としてのコミュニケーション」というだけでは、何か物足りない。
そこで考えるのは、性愛要因と、怒りの要因なんだけど。