chiki さんはひきこもりの「表象のされ方」を問題にされているので、ここでは次のような指摘をしてみます。
夏目漱石『こころ』の冒頭は、次のように始まっています。
私はその人を常に先生と呼んでいた。 だからここでもただ先生と書くだけで本名は打ち明けない。 これは世間を憚かる遠慮というよりも、その方が私にとって自然だからである。 私はその人の記憶を呼び起すごとに、すぐ「先生」といいたくなる。 筆を執っても心持は同じ事である。 よそよそしい頭文字などはとても使う気にならない。*1
ここでは「先生」は、≪尊敬≫の対象として描かれている。
それに対し「ひきこもり」は、例えば次のように描写されます。
337 :(-_-)さん :04/08/03 17:11 ID:???
1さんはまだ良いよ兄貴は20歳でしょう?
あたしの兄貴なんか35歳だよ!!ここまで来るとキモいぜ
おかげでこっちが頭おかしくなってくるよ。
隣の部屋同士なんだけど奴が飯とか食っている音とか聞くだけで
キモくて吐きそうになるし、奴が触ったとこは除菌スプレーとか撒かないと
触れないぜ。家出たいけど金ないし・・・
仲の良い弟は奴が居るから家出て行ってしまった。
しかも家、母子家庭・・・。
死んでくれたらいいのに。*2
「先生」との対照に笑ってしまった方は、かなり正確に話をつかまれているかもしれません。
僕はこの「ひきこもり」の描写に、≪不気味なもの≫という精神分析用語を使いたくなります。 家族による描写だけでなく、もっと広く社会的なレベルで言っても、「ひきこもり」というのは、≪何か得体の知れない、ブキミな連中≫として表象されているのではないか。
ひきこもりに対しては、「極端にベタで知性のない対応」と、「過剰に知性化しすぎた空想論」の、両極端がないでしょうか。 → これ、まさに≪不気味なもの≫への防衛反応では?*3
右翼・保守系が「精神論」で何とかしようとし、左翼系が「資本主義の犠牲者」で片付けようとするリアクションも、やはりそれぞれの陣営の≪不気味なもの≫へのお決まりの反応モードではないか。 → いずれにしても、事象に適切に対応してはいない。*4