「自称ひきこもり」

 22日のコメント欄から。

cyotukan 『自称ひきこもりってどんな人の事ですか? 確かに「あんた当事者かよ?」って感じる人もいると思いましたけど、そういう言い方は、専門家やアイコンとしてメディアに取り上げられる元当事者や支援者から言われると、感じ悪く思います。私から見て、「こいつ自称支援者だな」って輩も何人も見てきましたから・・・。自分の状態を他人の判断基準に委ねてしまうなら、当事者の主権や自主性など夢のまた夢だと思います。』



 私が「『自称ひきこもり』の主張すべてに常に全面同意するわけでもありません」という断り書きをしたのは、先方の抱えたトラブルにおいて「お前はひきこもりなんだから、こちらの味方だろw」という無条件の同盟・参戦要求をされたことがあるからです。
 私は、「誰が“本物の”ひきこもりか」といった問いかけ――いわゆる「偽ヒキ」問題――は、それ自体を突き詰めても不毛だと思います。それよりも、「ひきこもり」という言葉をきっかけにして、何を共有できるのか、何を一緒に作っていけるのか、を考えた方がいい。10年以上の引きこもり同士でも何も共有できないかもしれないし、逆にいわゆる「引きこもり」ではなくとも、考え方や指針を共有できるならば一緒に頑張ればいい。ですからここでは「定義」よりも、「問いを共有できるか」が問題になると思います。
 「支援者」も同断です。支援を求める人の問いやニーズは様々ですから、「万能の支援者」はあり得ない。支援との関係においてどういった問いを自分に課すか、という形で自己規定するしかないし、それが「当事者」と接点を持つかどうかはわからない。
 「誰が当事者か」「誰が支援者か」という客観的定義は、各支援者が自分のプログラムを定めたり、行政などの社会的な仕組みを動かすときの手続きとしては必要ですが、それ自体が当事者同士・支援者同士の連携を保証するものではない。私たちはむしろ、自分の抱えた問いを通じて、誰と何が共有できるのか、を探すべきではないのでしょうか。
 その意味ではもちろん、私も「自称ひきこもり」であり、「自称支援者」です。