ライブトーク 《ふたつの「あの日」が揺らしたもの - 大震災が問うひきこもり問題 - at神戸》

  • 日時: 2011年11月27日(日) 13:30〜16:30(13:00 開場)
  • 定員: 80人
    • 懇親会あり(有料) 寄付もサイトや当日会場で受け付けます。


プログラム

  • 1部 「それぞれの現場からのレポート」 ジャーナリストや支援者の報告
    • メディア: 池上正樹 さん(ジャーナリスト)
  • 2部 「サークルごとのクロストーク」 グループに分かれてのディスカッション


お申し込み・お問い合わせ

 申込者を優先します(当日参加も可能です)。

 主催: NPO法人グローバル・シップスこうべ&ひきこもりたちの東日本大震災実行委員会
 後援: NPO法人神戸オレンジの会、ふくろうの会、NPO法人情報センターISIS(イシス)神戸 他



参加のお誘いを頂いた際、お返事として記したメールの一部を(わずかに修正して)転載します。


 じつは、とても迷っています。


 というのも、今いちばん重要だと考えているのが、
 《観察対象object》 から、《主体subject》 になること
 だからです。


 これまで引きこもり問題は、80年代半ばの不登校問題の枠組みを引きずり、「専門家や親が子供を支援する」という図式がメインでした。またマスコミも、「こんな人がいる!」というセンセーショナリズムの目線を抜け出せず、美談や派手なエピソードを好む傾向を感じています。(要するに「観察対象」です。)


 私にとって、1995年の被災体験は、決定的でした。
 ですので、今回の企画はとても関心があります。しかし、私が声をかけていただいたのは、10年以上にわたる活動歴や、日頃の問題意識を評価されてのことでしょうか。それとも単に、「ひきこもり」だからでしょうか―― そういう葛藤があるのです。


 少し前から私は、誰かを《ひきこもり》と名詞形で名指すことに、反対しています(このことは、池上正樹さんにも別の回路でお伝えしました)*2。 「あいつは引きこもりだ」というのは、「あいつはホモだ」に似て、要するに差別ではないでしょうか。―― そういう意味で、銀座で行われたイベントのタイトル「ひきこもりたちの東日本大震災」にも、疑問が残るのです。


 東北の大震災では、阪神大震災の体験は、役に立っていないとのこと。
 それはPTSDの問題に留まらず、1995年以来の神戸の実情――公共と民間の連携に失敗した実状と、関わるように感じます。さらにそれは、数百億円をかけて失敗した引きこもり支援の実状とも、関係するでしょう。逆に言うと、そこで活動が始まれば、今後の数十年につながる話ができるはずです。


 ―― そういう問題意識をご一緒できるなら、ぜひ今回のイベントに参加したく存じます。しかし、「ひきこもりに体験を語らせる」みたいなことでしかないなら、今回は見送らせてください。


 今の私は、「当事者役割への囲い込み」は、臨床的にも有害である、という立場に立っています。(つまり「当事者に語らせる」ことは、それ自体として諸刃の剣でありうる、という認識です。単にプライドの問題ではありません。)



ここで私が言っていることは、ひきこもり支援全体のフォーマットにかかわることで、今回の企画に限った話ではありません。

参加者は他にもおられますし、どこまで伝えられるか分かりませんが、私の基本的な問題意識として、できるだけ提起したいと思います。
よろしくお願いします。



*1:【上山注】: パネリストが受け取るのは交通費のみです。

*2:執筆者が配慮しても、編集部の意向で「よりインパクトのある表現」が選ばれることもある。